第833話 人の命の 儚くもあり

2019年にメンタルを崩して、4か月の休職を余儀なくされたときから、精神科クリニックに定期通院している。ちょうど私が心の調子を崩していたころ、当時の勤務先の理事長の息子さんDr.(I先生)が週に2回、非常勤で診療所に応援に来てくれていたのだが、ラッキーなことに、I先生の専門は「精神科」だった。


I先生が、「この先生は信頼できると思います」と勧めてくださったのが今通院中のクリニックである。現在も気持ちに波はあるものの、何とかまともに仕事をできているが、結構な量の薬を今も飲んでいるし、これらの薬を中止しようとしても、一つは数カ月かけてゆっくり減薬していかなければならないこと、悪くなれば、また「休職」ということにもなりかねないので、5年ばかし、薬を続けている。


院長先生(Y先生)は、初老の先生だったが、5年も通院すると、私も先生もそれだけ年を取るわけである。2月の受診の時に、院内掲示で「Y院長が3月末日で外来診察を終了、4月半ばで院長職も降り、そのあとは息子さんのS先生に引き継ぐ」と張り紙がされていた。


「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」


という言葉があるが、第一線で働いていた医師が、第一線を退くときは、こんな感じだよなぁ、と思いながら、先の言葉を思い出した。


3月はたまたま、定期診察が月に1回だけだった。最後の診察日にもY先生はお元気で、


「じゃぁ、4月からは息子にバトンタッチするから。いろいろ細かいことを聞かれるかもしれないけど、よろしく」

「はい、精神科ですから、いろいろ聞かれるのは当然だと思っています。先生、本当に長い間、お世話になりました。ありがとうございました」


と最後の挨拶をして、Y先生との診察を終了した。


丁度今日が定期受診日だったので、クリニックに向かった。クリニックの受付を見ると、3月の時には、「院長交代」のピンク色の張り紙をしていたところが、白黒の張り紙に変わっていた。内容を見ると、「Y院長が3月〇日 急逝しました」とのことだった。


診察受付をしながら、内心は「えーーーっ!」と驚きで一杯だった。私が最後の診察を受けてから、わずか5日後のことだったようだ。


張り紙を見て、仰天した患者さんが、事務スタッフに声をかけ、会話が聞こえてきたが、前日の夜の診察も普通にこなされていたそうで、本当に「急逝」だったようだ。


一時流行した「100日後に死ぬワニ」の話を思い出した。作者と読者は、ワニがいつ亡くなるかを知っているが、漫画の中のワニは、何も知らず、一日一日を生きていき、そして、浜辺に作った小さな砂の城が、波にのまれて崩れるようにふっと亡くなってしまう(確か原作では明確にワニが死んだことを描いていたわけではなく、それを暗示するような話で終わっていたように記憶している)。Y先生も、その命が無くなる直前まで、そんなことは夢にも思っていなかっただろうと思う。


内科医として、高齢者を中心に診療を行なっていると、どうしても「死の看取り」はついて回る。誰しもが「大往生だよな」という経過で亡くなる人もいれば、思わぬタイミングで亡くなってしまい、


「えっ?マジ?!何で??」


ということも経験する。ただ、今回のY先生の急逝は心に堪えた。普段仕事で「医師―患者さん」の関係で見ているのとは違って、今回は私が患者さん側の立場だったので、仕事とは違う感情の動きなのだろうと思ったりした。


ただ、大変だったのは新院長のS先生だろう。公的には、予定を組んでいた「院長の交代」にかかわる手続きの段取りが大きく狂い、私的にはお父様を亡くされて、葬儀や何やでバタバタされたことだと思う。引き継いだクリニックの診療をつづけながら、公的、私的に様々なことをこなしていくのは大変だと思う。手続きが煩雑となれば、お父様を亡くされたことを悲しむ暇も亡くなってしまう。それは精神的によろしいことではない。


長年勤務していたスタッフも青天の霹靂であり、スタッフの心のケアも大切であり、大変であろうと思われる。


今日の診察はずいぶん混雑していたが、初対面のS先生にも、スタッフの方にもお悔やみを申し上げて、定期薬をもらって帰ってきた。


こういうことを目の前にすると、「本当に人の命は儚いなぁ」と痛感する。私にとっては、3月の診察がY先生との最後の診察だったので、「先生は隠居されている」と自分をだますことは容易であるが、ご家族やスタッフにとってはとてもつらいことだろうと思う。


1995年だったか、“The Beatles Anthology” projectでは、John Lennonの未発表曲から2曲、”The Beatles“のクレジットで新曲を発表したが、残された3人(まだGeorgeも元気だった)は、当初、どのようにして未発表曲にアプローチするのか、困惑したそうだ。そして、「Johnは、このテープを置いて、『夏休みの間に仕上げておいて』と言って夏休みを取ってしまった」という心の設定にしたそうだ。その設定ができてようやく、曲の完成に取り組めた、と聞いたことがある。


Y先生の急逝も、私は「最後の(最期の)診察」を受けているので、「Y先生は隠居された」という心の持ち方でいればいいのだろう、と思ったりする。とはいえ、大変驚いた。先生のご冥福を心からお祈りする次第である。 

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