第832話 良かったのだか、悪かったのだか…。

私の外来に2か月に1回、高血圧で通院されていた70代男性の方。名前をパッと思い出せないので、おそらく定期診察の時も、


「調子はいかがですか?」

「特に変わりないです」


というやり取りをして、自宅血圧の確認。予診で取ったバイタルサインを確認し、胸部聴診。軽く日常の様子を確認して、日常生活のアドバイスをして診察終了、となっていた方だと推測される。降圧薬はARBだったと記憶している。


2月下旬の外来診察時に


「調子はいかがですか?」

「特に変わりはないですが、3日ほど前、寝ているときに2,3分、胸のあたりが締め付けられる感じがありました。今は大丈夫です」


とおっしゃられた。


「胸痛」があれば、当然想定すべき疾患(鑑別診断)の中には、緊急を要したり、見逃せば命にかかわる疾患も上がってくる。しっかり患者さんに症状の性状を聞いて、対応を考える必要がある。


初期研修医が参考書とする教科書には、「痛み」については「OPQRST」を聞く、と書いてある。私は「初期研修医向け」に書かれた本を(もちろん内容はしっかり見たうえで)愛用することが多い。というにも理由があるからだ。


良質の「初期研修医向け」教科書は、その事項のエッセンスを簡潔にまとめていることが多い。「初期研修医」はいわば、かなり余白のある「絵」のようなもので、「初期研修医」時代に学んだことをベースに、その後の数十年の「医師人生」を過ごしていくわけである。なので、余白に「いい加減なこと」を書いてしまえば、「いい加減」なままの医療を行なうことになるのは容易に想像できよう。なので、「良質」の初期研修医向け教科書ほど、基礎を正しく丁寧に記載しているのである。その本で得られた知識が、その後、何万人もの「患者さん」に影響を与えることを著者が理解しているからである。


ちなみに、「OPQRST」とは、O:onset(はじまり)、P:Palliative/Provoke(何をするとよくなるか/悪くなるか)、Q:Quarity/Quantity(痛みの質、強さ)、R:Region(痛みの場所)、S:Symptom(一緒に起きる症状)、T:Timecourse(その経過)の頭文字である。


患者さんが感じた胸の症状を詳しく聞くと、どうも「狭心症」が疑わしいと思われた。「狭心症」でも、発症から何年も続いていて、いつも同じような状況で発症し、ニトロペンなどで落ち着く「安定した」狭心症であればあまり慌てる必要はないのだが、「新しく発症したもの」「症状が強くなってきているもの」「安静時にも症状が出るもの」は、「不安定狭心症」と言って、「心筋梗塞」に移行する可能性が高く、速やかに循環器内科に紹介が必要な状態である。


この患者さんは「新しく発症」しているので、「不安定狭心症」として、循環器内科に紹介が必要と考えた。


「胸の痛みの話を伺うと、狭心症、その中でも心筋梗塞に移行しやすい状態の可能性が高いと思います。今から緊急で循環器内科の大きな病院にお手紙を書いて受診してもらった方がいいと思います」

「いや、先生。そんなんせんで(そんなことをしなくて)いいですわ」

「いやいや、多分この胸の痛み、思っているより重症やと思いますよ。私は強く受診を勧めます」

「先生、また今度でよろしいわぁ」

「いやいや、『また今度』って、もしかしたら『今度』はないかもしれないですよ。心臓のトラブルは、突然死することもありますからね」

「先生、やっぱり様子を見させてもらいますわ」


う~ん、漢籍に「三たび諫めて聴かざれば即ち退く」という言葉があるが、言葉の通りである。これ以上押し通しても、却って揉めてしまいそうだ。それに、「不安定狭心症」の可能性が高そうだ、と思っても、「必ずそうだ」と断定はできない。逆流性食道炎でたまたま胃酸が荒れた食道を刺激した、という可能性もあるわけで、実際に冠動脈を造影しなければ、真偽のほどは分からない。


「そうですか。わかりました。そしたら、いつもの血圧の薬に、「アスピリン」という血液をサラサラにする薬を追加しましょう。それと、狭心症の症状を緩和させる「ニトロペン」という薬を処方するので、胸の痛みが出たら、すぐにこの薬をベロの下に入れて「コロコロ」とベロの下で転がして溶かしてください。狭心症なら1分ほどで効果が出ます。5分以上たっても良くならなければ、2錠目をベロの下に入れて、すぐ救急車を呼んでください。ニトロペンで胸の痛みが楽になっても、次回もう一度お話を聞かせてください。循環器の先生に診てもらうかどうか、もう一度相談しましょう」


と説明して、定期の降圧薬に加えてアスピリン100mg、ニトロペン0.3mgを追加して処方。


「次回また様子を聞かせてください。具合が悪ければ、薬が残っていてもご相談を。」


と伝えて、その日の診療を終えた。


それから3週間ほど経った頃だろうか。私の「書類ボックス」に近くの急性期病院からの紹介状が挟まったカルテが入っていた。


内容を見ると、この患者さんだった。3月某日、深夜に胸痛のため同院に救急搬送。CAGでLAD #6に99%狭窄を伴うSTEMI、との診断で、PCI、同部位にDESを留置しました、との内容だった。(CAG:Coronary Angiography(冠動脈造影)、STEMI:ST Elevated Myocardial Infarction((心電図で)STの上昇する心筋梗塞)、PCI:Percutaneus Coronary Intervention(経皮的冠動脈形成術)、DES:Drug Eluting Stent(薬物溶出性ステント))


「あぁ、やっぱり不安定狭心症で合ってたんだ…」と思った。


前回の経緯を書いたカルテを見ながら、「もう少し強く言っていたら、循環器内科への紹介を承諾してくれただろうか」などと後悔した。「行った方がええで」と繰り返したのに、行かなかったのは患者さんの選択だから、そこまで気に病む必要はないのかもしれないが、それでもこういう報告はつらいものである。


そして先日の土曜日、患者さんが「薬が切れた」との主訴で来院された。


「あの時、もっと強く言ってくれていたら、病院に行ったのに!」


なんて文句を言われるのではないか、と内心怯えながら、患者さんを診察室に呼び込んだ。


「おはようございます。この度は大変でしたね。お元気になられて良かったです」

「いやぁ、先生。ありがとうございます。先生のおかげで命拾いしました」

「・・・・??」

「いや、先生が、『ニトロを使って症状が良くならなかったら、2つ目をベロの下に入れてすぐ救急車を呼べ』って言ってくれてたでしょ。あの後、2回、胸がギューッとなることがあったんですが、ニトロですぐ落ち着いていたんです。でもあの日は、ニトロを使っても楽にならなくて、その時に『先生が、ニトロが効かへんかったら、もう一個ニトロをベロの下に入れて、すぐ救急車を呼べ、って言うてたな』と思い出したんですわ。先生の言うたとおり、すぐ救急車を呼んで正解でした。本当に助かりました。ありがとうございます」


あぁ、きっちり説明しておいてよかった。症状が出てすぐ救急車を呼んで、病院に搬送されていたとしたら、心筋へのダメージは最小にできていたはずだ。と、ホッとした。


患者さんはすっかりお元気になられており、身体所見も問題なし。前医からは、「しばらくは当科でfollowします」とのことで、予約も取っている、とのことだった。新たに処方が開始された薬の処方箋を書いて、診察を終了とした。


「次善の手」打っておいて本当に良かった、とホッとした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る