第830話 「正しい」選択って何だろう?

先日入院してこられた90代の女性。もともと少し離れたところで一人暮らしをされていたそうだが、先月、COVID-19に罹患。それに細菌性肺炎を併発したようで、呼吸苦がひどく、地域の中核病院に入院された。COVID-19、細菌性肺炎に加えて、心臓弁膜症をもともと持っておられたようで(かかりつけ医院からは指摘されていなかったそうだ)、心不全も併発されていたそうだ。濃厚な積極的治療で元気を取り戻され、娘さんがお住いの当地で入所できる施設を探したい、ということで、「リハビリ」と「施設調整」を目的に入院された方だ。


受け答えはスムーズで、自分でトイレまで歩いていくことができるほどのADLをお持ちだが、見当識や短期記憶の障害は強く、実際に施設でお過ごしいただくのが適当だろう、と思うのだが、私の心を悩ませているのは、「心臓弁膜症」である。


臨床上問題になる弁膜症は主に4種類ある。身体の血液循環にかかわる左心系、ここには心房と心室の間にある逆流防止弁である「僧帽弁」、心臓の出口についていて、逆流を防止する「大動脈弁」の二つの弁があり、それぞれ「狭窄症(うまく開かなくなって、流出制限が起きる)」と「閉鎖不全(「逆流」ともいう。弁がきっちり閉じないために弁から送り出したはずの血液が漏れてくる)」という二つの病態があるため、2×2で4つ、ということである。


その中でも一番悩ましいのが、「大動脈弁狭窄症」である。心臓から出ていく血液の流れが常に制限されているので、心臓に常に強い負担がかかっているためか、弁膜症としての生命予後が最も悪いと思われるのが、この疾患である。失神や突然死の原因ともなりうるだけでなく、「心不全を発症すれば生命予後の平均は1~2年程度」「失神発作を起こせば、生命予後は平均で2~3年程度」といわれている。


かつては心臓弁膜症の手術は、人工心肺を用いて、一時的に心臓を止め、異常を呈した弁を人工弁/生体弁に置換したり、「弁形成術」を行なったりするものだった。当然大掛かりな手術になるので、手術の対象になる人はある程度制限があった。手術に耐えられず命を落としては意味がない。


私が医学生のころは、「僧帽弁」にたいして、カテーテルを用いた治療が開発され、臨床の場で行なわれることが増えてきたころだった。僧帽弁でうまくいけば大動脈弁も、ということで様々な手技が試されたが、いずれも大動脈弁については成績は良くなかった。


心臓の「弁」といっても、その実態は薄い膜である。弁が開くときは、「薄い膜」なので、基本的には血流の邪魔になることはなく、閉じるときには、まるで「背中側から強い風が吹いているところで、傘を開く」ようなもので、薄い膜が「バッ!」と開いて、弁が閉じられる。大動脈弁もそのような弁なので、「壊れた弁を何とかしよう」ではなく、「壊れた弁はもう血管壁に押し付け、「開きっぱなし」にして、その部分に「人工弁」を挿入しよう、という発想になり、この成績が良かった。この手法は「経カテーテル的大動脈弁植え込み術(Transcatheter Aortic Valve Implantation:TAVI)」と呼ばれ、これまでの開胸手術に比較して、圧倒的に侵襲性が低く、適応年齢も拡大した。


それはそれでよいことなのだが、そうなると、今回転院してこられた方のような、比較的身体の動きは良好、認知機能は低下、大動脈弁狭窄症は高度、という方をどうするか、というのが悩ましくなる。


TAVI開発前なら、「もう高齢ですし、心臓にトラブルがあれば『その時が寿命』と思いましょう」というほかなく、仮にご本人が、大動脈弁狭窄症に伴う突然死やうっ血性心不全で亡くなったとしても、「寿命でした。90歳を超えておられ、『大往生』です」ということで全員が納得できたのだが、高齢の方では、選択肢が増えることは決して幸せではない。


TAVIも開胸手術に比べると低侵襲、低リスクとはいえ、ゼロリスクではない。動脈系でのカテーテル操作では、血管壁にくっついていたプラークがはがれて、脳や他の臓器の血管をふさいでしまう「塞栓症」のリスクがあり、例えば、TAVIはうまくいき、心負荷の軽減は図れても、脳塞栓症で麻痺が出たりすれば、TAVIをしたことが良かったのか、悪かったのか、分からない。しかもこれは、大きく見れば、「リスクは〇%程度」と統計学的に話すことはできるが、個人レベルでは、合併症は「起きる」か「起きないか」の二択であり、確率が低いとはいえ、その悪いクジをひいてしまうことはあるのである。


手技のリスクだけではなく、それに付随する廃用症候群であったり、「医療費」であったり、そう言ったことを考えると、もろ手を挙げて、「どうぞどうぞ」とは言えないのである。今ご本人がHappyに人生の最終章を過ごしておられるのに、最後の最後でそれを台無しにしてしまう、ということもあるわけである。


当院に転院されたのは、ご家族のお住まい近くの施設に入所するため、なのであり、目的遂行だけを考えると、このままみていくのが良いのだろう、と思ったり、その一方で、入院当日にご家族とお話をしているときに


「大動脈弁狭窄症で心不全を起こしたことのある患者さんの平均余命は約1~2年程度といわれている」


と伝えたときに、ご家族全員が


「えぇっ?!」


とひどく驚かれていたことを思うと、多分これまでかかわってきた医師が誰も、そのような情報提供をしていなかったのだろう。であるなら、「取りうる選択肢」をリスクも含めて明示をしない、ということも不誠実かもしれない、と思って悩むわけである。


当院に入院される方は、予定入院の方が多いのであるが、それでもこのように悩むことが珍しいことではない。


前医で、きっちり説明しておいてほしいなぁ、と思わなくもない。

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