第815話 意味のない設備、訳の分からない金額

ソースは3/27読売新聞オンライン、Yahooニュースより


<以下引用>

東京メトロの駅の多機能トイレ内で2021年、会社員男性(当時52歳)がくも膜下出血を発症して死亡したのは、駅側の対処が遅れたことが原因だとして、和歌山市在住の遺族が同社に約1億700万円の損害賠償を求め、和歌山地裁に提訴していたことがわかった。同社は訴訟で「男性の死亡と当社の対応に因果関係はない」と争う姿勢を示している。

 訴状などによると、男性は21年6月7日、日比谷線八丁堀駅の多機能トイレで、くも膜下出血を発症して転倒。約7時間後に警備員に発見され、病院に搬送されたが、死亡が確認された。


 トイレには、押すと駅事務室に異常を知らせる非常ボタンと、30分以上の在室を検知すれば自動で駅事務室に通報する装置があった。ところが、非常ボタンはブレーカーが切れて電源が入っておらず、通報装置はトイレと駅事務室をつなぐケーブルが敷設されていなかったという。


 遺族側は、男性が早期に発見されていれば死亡しなかった可能性があり、トイレの設備を点検しなかった同社の過失と死亡に因果関係があったと主張し、昨年9月29日付で提訴。同社側は「設備を点検する法的義務はなく、賠償責任はない」と請求棄却を求めている。


 事故を受け同社は22年、多機能トイレの完成時に非常ボタンや通報装置の動作を確認し、定期検査も実施するとした再発防止策を公表した。

<引用ここまで>


いろいろと「変」な訴訟である。まず一番の疑念は、「本当に『多機能トイレ』内でクモ膜下出血を発症したのか?」という事である。仮に、「便器に腰かけた状態」で発見されていれば、「トイレの真っ最中」に発症した、という事がわかると思うのだが、何を根拠に「トイレ内で発症」としたのであろうか?小用を足すなら、普通の男子トイレでよいわけである。最近はずいぶんときれいになったが、男性の「大きい方」の個室は、往々にして汚れていることがある。急な腹痛を自覚して、でも男子トイレは汚いから、という事なら筋は通りそうだ。ただ、くも膜下出血(以下SAH:SubArachnoid Hemorrageと略す)を、トイレに入る前に発症し、強い吐き気を催して、嘔吐のために多機能トイレに駆け込んだのかもしれない。となると、「トイレ内での発症」を証明するのは難しいと思う。近くの監視カメラの映像から判断したのか、ズボンなどを脱いでいたからそう判断されたのか、そこは難しいところであると思う。


遺族側の訴えとして「不自然だ」というのは、記事中で「男性が早期に発見されていれば死亡しなかった可能性があり、トイレの設備を点検しなかった同社の過失と死亡に因果関係があったと主張」というところである。例えば、「発症した時点での死亡率が5%、それを7時間放置したから亡くなった」、という事であれば、1億円以上の賠償請求、と聞いても「それはそうかもしれない」と思うだろう。「死亡」に関与したのは、おそらく疾患発症直後の死亡率ではなく、その後の「放置」の寄与が大きいと思うからだ。


しかし、SAHはそんな生易しい疾患ではない。いろいろと調べてみたが、初回の出血での死亡率は30~40%とのことであり、もちろん意識障害など重篤な症状を伴うものほど、発症直後の時点での死亡率は高くなる。


一つの症例がevidenceとして極めて弱いことを承知の上で、私自身が経験した症例を書かせてもらうと、60代の男性Aさん、家族で会社を経営していた方。仕事が終わり、息子さんに「帰るから車を玄関に回しておいて」と伝え、息子さんが車を回して玄関で待っていたが、いつもならすぐ下りてくるAさんが下りてこない。5分ほど待ってもおりてこないので、息子さんが会社の事務室に行くと、心肺停止状態のAさんを発見。すぐ救急車で私の研修病院に搬送。ACLSで心拍再開し、原因検索を行なうと、SAHだと診断された。


また別の40代の方。朝から急に頭痛がしたので、地元の市民病院に受診したが、受付で「紹介状がないと受診できない」と言われ、市民病院の近くのクリニックを受診し、紹介状を書いてもらったそうだ。それを持って、市民病院の窓口に行くと、「受付時間が終わったので、翌日来るように」と言われたそうだ。それでいったん家に帰ったが、吐き気もするし、頭痛はひどいし、ただ事ではない、と思い、私の研修病院の夜の外来を受診。私の診察室に入ってこられた。病歴からは一番にSAHを疑い、頭部CTを取りに行ってもらったが、その後患者さんは一向に戻ってこない。ヤキモキしているとERの後輩から診察室に連絡があり、「先生が頭部CTを指示された患者さん、SAHでした。ERで対応しています。連絡遅れてすみません」とのことだった。頭部CTを確認すると、教科書に乗せたいほどに典型的な画像が出てきたことを覚えている。


話は長くなったが、簡単に言えば、「命のつながるSAHは、発症してもある程度意識があって動くことができる。発症時点で意識を失うようなSAHは「最初から助からない」SAH」という事である。今、SAHの手術適応がどうなっているのかは不勉強で申し訳ないのだが、私が医学生のころはSAHの重症度として”Hunt & Koznik”の重症度分類を用いていた。極めて簡単にまとめると、「意識のあるSAH患者さんは手術。意識のないSAH患者さんは手術をしても死亡リスクが高いので手術はしない」という事であった。


なので、この方が、発症後昏倒し、意識障害を起こしていたら、多機能トイレの設備云々にかかわらず「助からない命」だったのである。「発見が早いか遅いか」の違いだけである。


という事を考えると、「1億円以上の損害賠償請求」が妥当な金額かどうか、考える必要があると思われる。損害賠償請求額が大きくなるほど、弁護士さんへの支払金額も大きくなるので、そのような穿った考え方をしてしまったりもする。


その一方で、東京メトロも「訳の分からないこと」を言っている。もともとこの多機能トイレには、押すと駅事務所に異常を知らせる「非常ボタン」と、30分以上の在室を検知すると、駅事務所に異常を知らせる通報装置がつけられていたそうだ。


ところが、非常ボタンはブレーカーが切れて電源が入っておらず、通報装置は駅事務所への配線そのものがしていなかった、とのこと。びっくりである。非常ボタンを押しても動きません。長時間の在室を感知する通報装置も駅事務所につながっていません、では、何のための非常ボタンや通報装置なのか、訳が分からない。


「公衆トイレ」はご存じの通り、危険な場所である。個室内で犯罪が行われていても気づかれないことも十分にありうる。そのための非常ボタンであり、長時間の在室を検知する通報装置であるはずである。


東京メトロ側が、「設備を点検する法的義務はなく、賠償責任はない」とコメントしたそうだが、そういうコメントを出して、恥ずかしくないのだろうか、と極めて疑問に思う。自分の会社が管理しているトイレは「安全に配慮していませんでしたよ」と言っているのと同じことである。


事故を受けて、会社側が施設の点検を行なっていく、という事になったようであるが、それにしてもいい加減なものである。


ご遺族は、おそらく発見が7時間も遅れたことに対してお怒りなのだろうと思う。ただそうであるなら、報道された主張はポイントを外していると思われる。東京メトロ側の「死亡と当社の対応に因果関係はない」というのはおそらく正しい。


ただ一方で、非常ボタンや長時間在室に対する通報装置が用意されているにもかかわらず、それを機能できるようにしていなかったのは東京メトロの大きな落ち度だと思う。一番の問題は「危機管理意識の低さ」だと思う。非常ボタンや長時間在室の検知、というのは急病だけでなく、犯罪に対しての対応でもあると容易に想像がつく。仮に犯罪に巻き込まれた人が非常ボタンを押して、それでも誰も駆けつけなければ、その絶望感はどれほどのものだろうか?


法律上「善意の管理者」という概念があるそうだ。他人のお金であったり、他人の施設、設備であったり、あるいは自分が所有している公共のために使うものを「管理」する人は、「一般通念上要求されるレベル」の管理をしなければならない、というものである。


とすれば、東京メトロは、この多機能トイレに対して、「善意の管理者」足りえたのか?という疑念はぬぐえない。「設備を点検する法的義務はなく、賠償責任は生じない」とのコメントを出しているが、「法的義務」はなくとも、「善意の管理者」として、「非常ボタンは作動するか、長時間滞在の通報装置は作動するか」を確認するのは、施設の所有者としては「当然行うべきこと」であろう。


という事で、遺族側も、東京メトロ側も、訳の分からない話である。



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