第812話 経鼻胃管、側臥位で入れたことないけど…。

大変ありがたいことに、まだ私は医療訴訟の被告となったことはないが、臨床に立つものすべてにとって、「医療訴訟」は極めて身近、日々「訴訟の恐怖」におびえながら仕事をしている、と言ってもある意味間違いではないだろう、と自身は感じている。


医療訴訟すべてがそのような形で行われているのかどうか、私は知らないのだが、私が極めて身近で体験した医療訴訟では、原告側は弁護士のほかに、いわゆる「医療ブレイン」的なものをつけていた。私は当事者ではなかったが、小さな組織で起きたトラブルであり、「裁判になった」という以前に「トラブルが起きた」という事でスタッフみんなが心を痛めていた。


なので、「裁判」という事になっても「致し方ないなぁ」と思っていたが、その「医療ブレイン」が自信満々に、「私たちが関わるからには、徹底的にミスを突き付けてやる」という態度だったので、個人的にはどうなることか、と気をもんでいた。現実問題としても、こちら側に非はたくさんあり、個人的には「負け戦だなぁ」と思っていたからだ。


ところがどっこい。いざ裁判が動き始めると、私のようなポンコツ内科医でも「そのロジック、変じゃない?」というような訳の分からない質問が出るわ出るわ。そのあまりのレベルの低さにびっくりしたことを覚えている。


「この人たち、本当に臨床医をしていたの??」


と思うほどであった。当方の弁護士さんは、医師会から紹介していただいた「医療訴訟」に強い弁護士さんだった、ということ、その他、諸般の要因もあり、結局は原告の全面敗訴、という結果になった。この結果には、個人的に驚いた。


このことについてはもうこれ以上触れないでおくが、この「医療ブレイン」の人、逆に足を思いきり引っ張っていたがな、というのが個人的感想である。これで、おそらく結構な金額を取っているのだろうと思うと、頭が痛くなったことを覚えている。


さて、先日、以下のような記事を見た。ソースはチューリップテレビ、Yahooニュースより


<以下引用>

急性胃拡張症を発症した女性(当時21)が、富山県立中央病院で、胃の内容物を吸引する措置を座ったまま受け、誤嚥を起こし窒息、その後死亡したことをうけ、女性の両親は「横たわる姿勢で吸引していれば誤嚥による心肺停止はしなかった」などとして、病院を経営する富山県に1億3000万円あまりの賠償を求める訴えを起こしました。


提訴されたのは、富山県立中央病院です。


訴状によりますと、2020年11月6日、女性は大量の食べ物を摂取したため、翌日、胃に食べ物や胃液などの内容物が停滞して胃が急速に拡張する「急性胃拡張症」を発症。


県立中央病院の救急外来を受診し、胃の内容物を吸引する措置を受けて帰宅しました。


同日午後5時ごろ、女性は容態が悪化したため、再度、県立中央病院の救急外来を受診。胃の内容物を吸引する措置を座ったまま受けましたが、この時、嘔吐物の誤嚥により窒息。心肺停止と低酸素脳症を発症し、遷延性意識障害となり入院し、2021年9月11日に死亡しました。


女性の両親は、左向きに横たわる姿勢で、熟練した医師が措置していれば、誤嚥による心肺停止は起こらなかったなどとして、県立中央病院を経営する県に、1億3400万円あまりの損害賠償を求めています。


県立中央病院は、取材に対し「裁判で主張していく」としています。


<引用ここまで>


私はERで働いていた時、ICUや手術室で経鼻胃管を挿入した時も、「左側臥位」で挿入したことがない。普通はそんなことをしないからだ。


意識のある方では、上半身を挙げた状態、半坐位~坐位の状態で挿入することが「基本」である。看護学のホームページをいくつか確認したが、どのサイトも、意識のある方の経鼻胃管の挿入は「半坐位~坐位」である。意識のない方では、嘔吐、誤嚥窒息に注意しながら、「仰臥位」で挿入することが多い。


意識のある方では、「喉のところにチューブが来たら、『ゴックン、ゴックン』を繰り返してくださいね。吐いたものを受け止める『膿盆』を渡しておくので、吐きたくなったら、ここに全部吐いてください。無理に嘔吐を止めないで下さいね」と声をかけて、下の方を見てもらって(下を向くと、気道系の入り口が狭くなる。逆に上を向くと、気道系の入り口が開いてしまう)、ゆっくり経鼻胃管を挿入していく。おおよそ45~50cmも挿入すれば十分に胃の中に入っているので、その程度まで入れば、経鼻胃管からの吸引を行ない、胃内容物を回収する。


意識のない方ではこの「ゴックン、ゴックン」ができないので、経鼻胃管の挿入は難しくなる。気管食道分岐部(喉頭、あるいは下咽頭)のところで、うまく食道の方に経鼻胃管を誘導できないからである。普段の状態では気道が解放されていて、食道は閉鎖されている。なので、喉頭の両端にある「梨状陥凹」の部位に経鼻胃管の先端を持ってこなくてはならない。


コツとして、左鼻腔から経鼻胃管を挿入する場合は「顔を右側に」、右鼻腔から挿入するときには「顔を左側に」向けることとされている。そして、その状態で、経鼻胃管の終端を耳のそばに持ってきて、経鼻胃管から呼吸音が聞こえないかを注意しながら挿入していく。


気管に入ると多くの場合、患者さんがひどくせき込むとともに、チューブから呼吸音が聞こえるので、その場合は、急いで、経鼻胃管を少し引き出して落ち着くまで待つようにする。状況によれば、口から指を入れて、喉頭の部分まで指を挿入し、喉頭の側壁にチューブを添わせて梨状陥凹に誘導することもある。このように顔を左右に向けるので、「左側臥位」では 経鼻胃管の挿入は「とてもしづらい」のだ。


看護のホームページを見ると、「坐位」で経鼻胃管を挿入できない場合は、「左側臥位」で挿入する、と書いてあるが、やはり第一選択は「坐位」である。


若い方で、基礎疾患がない方なら、咽頭、喉頭の機能がしっかりしているはずなので、本人の動きを邪魔せずに吐かせれば、そうそう誤嚥することはない。上手に嘔吐ができなかった、何らかの要因があったはずであるのが一つ、もう一つは、このような処置は基本的には「処置室」と呼ばれる、緊急時に速やかに対応できる部屋で行なうのが普通である。


吸引処置は当然、挿入後すぐに行うことなので、吸引の用意はすでにできているはずである。なので、なぜ誤嚥窒息→心肺停止に至ったのか、ということも疑問である。吸引器や気管内挿管チューブ、酸素の配管などのないところで経鼻胃管を挿入していたとしたら、そこは問題視されるかもしれない。


ただ、遺族が訴えるように「左側臥位で挿入を行なっておけば、誤嚥窒息にはならなかったはずだ」というのは、理屈に合わない。意識のある人は「基本的に」坐位ですることになっているからだ。基本を守って手技を行ない、予想外の出来事が起きたからといって、「基本に沿わなければよかったんだ」というロジックは成り立たない。


常日頃、医療訴訟について私が思っていることだが、「推理小説を逆から読まないでほしい」ということである。


しかも発生時刻は17時だ。いわゆる部長クラスの医師は、会議やカンファレンスで外来にはよほどのことがなければ来ない時間である。経鼻胃管の挿入は、初期研修医のマスターすべき手技の中でも最初の方に来る手技なので、ある程度若い人間が行なうことを批判することはできない(手技は回数を重ねるごとに上達する)。と同時に、経鼻胃管の挿入、基本的には肝心かなめの部分(気管食道分岐部)が目視できないので、ある程度、手の感覚や先ほど述べたような経鼻胃管から聞こえる呼吸音などを参考にせざるを得ない。救命救急センターレベルなら、片方の鼻から経鼻胃管、もう片方の鼻からは、耳鼻科用のファイバースコープやポータブル気管支鏡などで「目視しながら手技をしているのかもしれないが。


閑話休題。そんなわけで、普通なら、「誤嚥窒息からの対応が遅かったので低酸素脳症になったのだ」ということが訴えの内容として自然なのである。「坐位」で経鼻胃管を挿入することが「原則」だからだ。


なので、「左側臥位でしておけば誤嚥窒息は起きなかった」というのは、結果からの逆算、いわゆる「推理小説を逆から読む」ことをしなければ思い浮かばない、非常に不自然な発想なのである。


こういったところに、最初に述べた「本当に臨床力のある集団なのか疑わしい医療ブレイン」がかかわっているのではないか、と思ってしまうわけである。


病院側も、遺族側の論理展開がおかしいからこそ「裁判で主張していく」と争う姿勢を見せているのだと思う。それに、この医療事故(現時点では「医療ミス」とは言えないと思う)に対する賠償金額も不自然に高いように思う。遺族側の主張が「基本」から外れているのにどうしてそのような金額になるのだろうか?


さらに付け加えるなら、報道の中で、「女性は大量の食べ物を摂取したため、急性胃拡張を発症した』とある。「大量の食べ物を摂取」というのは、単純な「食べすぎ」ではなく、「神経性過食症」の可能性があるのではないか?もしそうであるなら、経鼻胃管挿入中の嘔吐は、「手技」の問題ではなく、「疾患による合併症」、つまり「疾患」が嘔吐の原因のうちで多くの割合を占めるのではないだろうか?それならなおさら、話がややこしくなるのだが??


少なくとも、私は、ER、外科外来、内科病棟、外科病棟、ICU、手術室で経鼻胃管の挿入法を複数の指導医から教わったが、「経鼻胃管の挿入は左側臥位で」ということは聞いたことがない、と伝えておきたい。


ちなみに、浣腸については、腸管穿孔のリスクがあるため、必ず「左側臥位」で右脚を曲げ、左脚は伸ばした状態で行なうこと、と習っている。回数は少ないが、これを守らず、便器に座った状態や、中腰の状態で浣腸を行ない、下部消化管穿孔を起こした、という事例は数例聞いたことがある。浣腸で「左側臥位の順守」が注意されているので、それと混同しているのかもしれない、とも思ったりする次第である。


最後に、亡くなられた女性の方のご冥福を、心からお祈りする。

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