第802話 本当に集中していると、分からないものだ。

796話から派生して、少し思い出話を。


796話ではNICUで、先天性心疾患を有する生後2か月のbabyちゃんに着けられていた、心電図モニターのアラーム音にスタッフが気付くのが遅れたため、babyちゃんが心肺停止状態となり、心拍再開後低酸素脳症の状態となり、7カ月で永眠。その医療事故(「医療ミス」かどうかは分からない)で、警察が捜査に入った、ということについて駄文を書いた。


私が後期研修医になって間もないころだっただろうか、時期はもう忘れてしまった。その夜のERリーダーはカズ先生、私が真ん中で、下に初期研修医の後輩がついていたはずだが、今となっては思い出せない。


23時ころ、walk inで(救急車ではなく、ご自身で受付を通って受診された患者さんを「”walk in”の患者さん」という)60代後半だったか、70代前半だったか、かなり肥満の強い女性が呼吸苦を主訴に受診、そのまま「状態が悪い」とのことでER処置室に入室となられた。


息子さんの肩を借りて何とかERのストレッチャーに座られたが、ひどい喘鳴だった。第一印象は「急性心不全」。


今なら、血圧を測定して、私の記憶が間違っていなければクリニカルシナリオ1の患者さんだったはず。NPPV(マスク装着型の人工呼吸器)をつけ、血管拡張薬で初期治療を行なうのが基本だ。ただ、あの頃はNPPVがようやく普及し始めたところだった。なので、急性心不全の治療としては、酸素をマスクやカヌラで投与し、利尿剤で心負荷を改善させる、というものだった。


カズ先生が、大急ぎで電子カルテに必要な検査や薬剤の指示を入力。実際に患者さんの対応をしたのは私だった。細かな数字は覚えていないが、血圧は高値、心拍数も早く、SpO2は90%を下回っていた。頚静脈は坐位でも怒張、下腿浮腫を認め、胸部聴診は奔馬調律、全肺野のcrackleがあり、「急性心不全」に矛盾しない所見だった。


「ラクテックでルートを取ってください。採血は4本で」と口頭指示を行なった。カズ先生がその指示を電子カルテに入力してくださった。ちなみに「ラクテック」は「乳酸化リンゲル液」、「4本」というのは採血管の数である。


基本の採血管は3本(CBC、血糖、生化学)、4本は主に心筋梗塞・あるいは肝性脳症を疑う人のセットで、基本の3本に「アンモニア・トロポニンT」用の採血管を加えた4本を、外傷や消化管出血など、輸血を考慮する場合には、「凝固系」採血管と「血液型・輸血用」採血管の5本を採血する。ローカルルールではあるが、採血管の数を言えば、その医師がどのような採血項目を考えているか、ERスタッフ全員に伝わるのである。 


「今日はどうしました?息苦しさは強いですか?すぐお薬を使っていきますね」と声をかけながら、身体診察を行ない、上記を確認した。看護師さんが心電図モニタを装着し、点滴路の確保をしようとしたが、高度に肥満されている方で、血管確保が難しかった。今なら「表在エコー」で血管の検索を行なうのであろうが、そのころはまだそこまでエコーも活用されていなかった。


患者さんは苦しさで身をよじっており、それが更に点滴路確保を困難にしていた。


「採血は僕の方で取ります。点滴路確保に専念してください」


と看護師さんに伝えて、私は穿刺の容易な大血管が、体表近くを走行している部位を確認していった。リスクの低いのは鼠径部の大腿動静脈である。ただ、この方、高度に肥満されているうえに呼吸苦のため、半坐位となっている。鼠径部の触診で血管を蝕知するのも難しかった。もちろん血管への穿刺、採血を取るのも難しい。


指先に神経を集中し、微弱に触れる大腿動脈の拍動を目安に、本当に採血に苦労した。苦労して、苦労してようやく必要量の血液が採取できた。点滴路確保とは別の看護師さんに「採血取れました!」と検体を渡して、採血部位を圧迫している時点で、ようやく気が付いた。先ほどまで大暴れしていた患者さんがぐったりしていて、心電図モニターは波形は平坦。アラームが鳴り響いていることに。


「わーっ!カズ先生!!(心臓が)止まってます!!」


と叫んだ。患者さんが採血処置の途中で心肺停止状態となったこと、全く気付かなかった。急いでベッドを倒して患者さんを臥位とし、ERスタッフ全員で心肺蘇生術を開始した。その後すぐに点滴路の確保ができ、薬剤を用いた心肺蘇生術で速やかに心拍再開。内科当直医を呼び、患者さんをICUに上げてもらった。幸いなことに、患者さんは障害を残すことなく状態が改善し、その時の入院では「歩いて」退院することができた。


余談だがこの患者さん、1か月ほど後に再度呼吸苦で救急搬送依頼があった。私が当直メンバーに入っていたので、


「この方、前回ERでCPA(心肺停止)になった人です。みんな全力で対応しよう」


と声をかけた。その甲斐あって、その時の救急搬送後はERでの初期評価、初期の処置は滞ることなくスムーズに事が進んだ。その日の当直医は循環器内科医である院長だった。院長に入院を依頼し、患者さんはICUに上がられたが、この時の入院では心不全の改善無く、10日ほど後に、ICUで永眠された。


閑話休題。私が必死になって採血をしているときには、あれほど暴れていた患者さんがおとなしくなっていたことも、心電図モニターが鳴り始めていたことにも全く気付いていなかった。採血を終え、ふと患者さんの方を見た時点でようやく気付いたわけである。ERには複数のスタッフがいたが、それぞれが懸命に仕事をしていたので、誰も気づかなかったのだ。


ICUに比べるとERではアラームが鳴ることは少ない。それでもこの様である。


アラームがひっきりなしに鳴るNICUで、新たなアラームが鳴ったことに気づくことは上記のように難しい。他の作業を集中して行なっていれば、気が付かないくても全然不自然ではないことを伝えたい。

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