第756話 病名告知を私がすべきかどうか?

過日の午前診。当院の物忘れ外来に通院中だが、内科受診は初めて、という80代後半の方が、「むくみがひどい」ことを主訴に奥様と来院された。


「最近、主人のむくみがひどいんです。朝になったら、目の周りや顔がパンパンにむくんでいて、夕方になったら、両方の脛から下が、パンパンに張ってくるんですよ」


との奥さんの言葉。ご本人も、


「自分では『しんどい』とかは無いんですけど、夕方になると足が重うてね、歩くの、ちょっと大変ですわ」


とのことだった。お話を聞くと、奥様が顔のむくみに気づかれたのは1か月ほど前からとのこと。物忘れ外来でドネペジル(先発品アリセプト、認知症の薬)以外には薬は飲んでおられないとのこと。これまでに何か病気で入院したり、継続治療したり、ということは物忘れ外来以外にはない、とのことだった。タバコは若いころに2箱/日ほど吸っていたが、30年ほど前からは吸っていない、お酒はのまない、とのことだった。看護師さんが予診で取ってくれたバイタルサインは、大きな問題は見られなかった。


「なるほど、急にむくんできたのはびっくりされましたね。ではまず、お身体を診せてください」


と伝えて身体診察を開始した。


「顔がむくんできた」と聞いて、私はドキリとした。私の恩師の肺癌が見つかったのも、長年勤務しておられた看護師さんが、


「先生、最近顔がむくんでない?」


という言葉がきっかけだったからだ。


患者さんと奥さんは「顔がむくんできた」とおっしゃられるが、初めてお会いする方なので、顔がむくんでいるかどうか、判断が難しい。手足の浮腫なら、指で押さえて「凹むかどうか」で判断するのだが、初めてお会いした患者さんの顔のむくみの有無、どうやって判断するのか、不勉強である。


坐位で頚静脈の怒張の有無を確認した。頚静脈の怒張は認めなかった。「よかった」と思った。


頭や顔、両手から戻ってきた血液は最終的には「上大静脈(SVC:Superior Vena Cava)」という血管にまとまり、右心房に入っていく。恩師は、肺がんが転移し、累々と腫れたリンパ節でSVCが圧迫、狭窄し、血流がスムーズに流れず上肢や顔のむくみを呈する「上大静脈症候群(SVC Syndrome)」という状態から肺がんが発見された。


この患者さんでは頚静脈の怒張がなく、これは一つは、上大静脈症候群ではないこと、もう一つは、重症の心不全ではないことを示唆している。私にとっての「恩師のトラウマ」は考えずに済みそうだった。


心音、呼吸音に異常を認めず、腹部平坦、軟、腫瘤を触れず、右季肋下に肝臓を蝕知しなかった。肝硬変であれば、おなかを膨らませるように大きく息を吸い込んでもらうと、右のあばら骨の下に、硬くゴリっとした肝臓を触れることが多い。肝臓がんの多くは基礎疾患に肝硬変を持っていることが多く、その点でもあまり肝臓のトラブルも考えにくかった。


両下肢とも下腿部前面にpitting edemaを明確に認めた。脛骨(むこうずね)の前面辺りを5秒間親指で押さえ、指を離すと「ペコン」とへっこんでいるもの(圧痕があるもの)を“pitting edema”、むくんでいるようにパンパンになっているが、圧痕を伴わないものを”non-pitting edema”と呼ぶ。”non-pitting edema”は甲状腺機能低下症を疑うものであるが、”pitting edema”であれば、いろいろと考える必要がある。両足とも同様にむくんでいること、顔にもむくみがある、ということを考えると「全身性の浮腫」というくくりで考える必要がある、と考えた。


これが「片方の足だけむくんでいる」ということであれば、「限局性の浮腫」ということになり、むくんでいる方の静脈やリンパ系の問題を考えていく必要がある。


全身性の浮腫であれば、まず、「心臓(心不全)、腎臓(ネフローゼ症候群)、肝臓(肝機能低下による低アルブミン血症)、ホルモン(甲状腺ホルモンなど)、そして薬剤性」を考える。評価としては、胸部レントゲンで、心不全の有無の確認、後は検尿、血液検査で各臓器やホルモンの問題を確認していくことになる。


「むくみが全身にあるようなので、全身にかかわる臓器の問題を考えます。これから胸のレントゲンを確認させてもらい、そのあと、おしっこの検査と血液の検査をしてもらいます。おしっこの検査、血液検査は検査センターに依頼して検査をするので、来週来てもらいましょう。レントゲン写真ができたらもう一度お呼びします。出たところ、テレビの前で掛けていてください」


と患者さんに伝え、検査の指示票を書いて検査に回ってもらった。


胸部レントゲンだけなら、短時間で結果が出る。次に待っておられた患者さんを診察し終えると、写真が出来上がっていた。ディスプレイに写真を表示して確認する。


「ありゃりゃぁ…」


と言葉を失ってしまった。確かにレントゲンでは心拡大の所見があり、浮腫の原因は「心不全」の可能性が高そうだった。ただ、それと同時に、右の下肺野に不自然な結節影が写っていた。断定はできないが、多分肺がんだろう。悪性腫瘍の病名告知には、非常に気を遣う。しかも、本当に肺がんかどうかは、組織を取らないと分からないことだ。少なくとも今すぐいうことではないと判断した。患者さんを診察室に呼び込んだ。


「レントゲン、お疲れさまでした。確認すると、この真ん中の白く写っているのが心臓です。心臓の影は、心臓に負担がかかり、心臓が悪くなると大きくなってきます。胸の幅のうち、心臓の幅がどれくらい占めているのか、を表す指標を『心胸郭比』といって、50%を超えると「心拡大」と考えます。測定すると、60.1%なので、おそらくむくみの原因は『心臓』が弱ってくる『心不全』が原因と思います」

「なるほど、心臓が悪いのですか」

「おそらくそうだと思います。先ほどお話ししたようにこの後、尿検査と血液検査を取ってもらって、1週間分、心臓の負担を取り、むくみをおしっこに変えて取り除く薬を1週間分処方するので、来週また来てくださいね。ただそれとは別で、ここに、白い影があります。レントゲンだけでは何とも言えないので、来週おいでの際に、診察前にCTの検査をさせてくださいね」


と伝えた。胸の陰影についてはいったん保留である。そして、利尿剤2種類(尿量を増やす「ループ利尿剤」と、むくみを作る原因となっているホルモン「アルドステロン」の働きをブロックし、心臓の負荷を軽減し、むくみを減らす「アルドステロン拮抗剤」)を1週間分処方とした。血液検査には、肺癌に関連する腫瘍マーカーを追加しておいた。


昨日の外来に、患者さんは約束通りに受診された。診察前に胸部CTを撮影してもらっていた。土曜日にはたいてい、非常勤の放射線科の先生が、CTの読影所見をつけてくださるが、その日の外来の患者さんについてもありがたいことに所見をつけてくださる。放射線科から伝票が回ってきたときに


「先生が所見をつけてくださってます」


との伝言をいただいた。患者さんを呼び込む前に、前回の検査結果と今回のCT画像、所見を確認した。血液検査、尿検査からはやはり「心不全」が疑わしいこと、腎機能、肝機能に異常なく、ネフローゼを疑うような尿タンパクの増加は認めなかった。腫瘍マーカーはいずれも陰性であった。胸部CTでは右中葉に不整形の結節影があり、読影医の所見でも「肺がんの疑い。呼吸器内科での精査を」との記載があった。


心の中で少し整理をして、患者さんを呼び込んだ。


「お待たせしました。その後調子はどうですか?」

「先生、ありがとうございます。いただいた薬で顔のむくみも、足のむくみもだいぶ良くなりました」

「それは良かったです。検査結果が帰ってきているので、その結果を説明しましょう」


と伝え、検尿の結果、血液検査の結果を伝えた。検尿では尿蛋白の漏出もなく、血清アルブミンも正常。肝機能に異常なし。心不全の指標となるNT-proBNPは300台とやや高めだった。甲状腺機能は問題なかった。


「血液検査、尿検査の結果を考えると、やはりむくみは心臓からの可能性が高そうです。薬は続けてもらった方がいいと思います。あと、今日撮影したCTですが…」


とCT画像をディスプレイに映した。


「レントゲンで写っていた影、多分これだと思いますが、形もいびつで、あまり「良いもの」ではなさそうに思います。大きな病院の専門の先生にしっかり診てもらった方がいいでしょう。これまで大きな病院に受診したことはありますか?」

「いえ、先生。これまで、物忘れくらいで大きな病気はしたことがありませんねん。だからここ以外、かかったことがありません」

「そうですか。そしたら、大学病院にお手紙を書いて予約を取ります。予約が取れたらご連絡しますね。連絡先の確認など、クラークさんにお話ししてもらうので、待合室でお待ちください。今日は土曜日で大学病院は休みなので、ほかの患者さんの診察を終えてからお手紙を用意します。そしたら、薬は長めに処方するので、待合室でお待ちください」


と伝えて診察を終了した。


訪問診療などで長年私の外来に通院されている方であれば、もう少し病状をはっきり説明するのだが、何せ2回目の受診である。なかなか「がん」という言葉は出しづらい。しかも、ここは「地域の町医者」である。面識もあまりない町医者ではなく、ある程度「権威ある病院」の「専門医」に病状説明を受けたほうが、より信憑性も、実感も出てくるだろうと考えた。


午前の診察終了後、大学病院宛ての紹介状(診療情報提供書)を作成した。悪性疑いの患者さんについては、必ず紹介状に、こちらが患者さんにどのように説明したか、を書くようにしている。


この患者さんについては「『右胸のレントゲン、CTでの異常影については、専門の先生にしっかり診てもらいましょう』と説明しました」と書いた。まだこちらでは「がん」という病名を口にしていないことを伝えたわけである。


もちろん人によっては「『悪性の可能性が高く、大学病院で精密検査、治療をしてもらいましょう』と説明しました」と書くこともある。


88歳の男性であり、比較的PS(パフォーマンス・ステータス:化学療法を行なうかどうかの判断などに用いられる)も良好な方である。現在の分子標的薬による化学療法であれば行なうのかもしれない。そういうことも含めて、専門医に紹介するのがベストと考えた。


ただ、それとは別で、「88歳の方の悪性腫瘍に対する治療が本当に必要かどうか?」ということについては、自分の中でまだ答えは出ていない。「病名告知から逃げた」といわれればその通りなのだが、やはり、信頼感のまだ育成されていない間では、「大学病院」であったり、「呼吸器内科専門医」という肩書きもまた重要な「武器」だろうと思った次第である。

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