第749話 「もったいない」よなぁ…。

自分が高校生だったころのことはよく覚えていないのだが、子供たちは二人とも私立高校に通学しているので、長期の休み明けには必ず、長期休みの課題をこなしたかどうかを確認する「課題テスト」が設けられている。


冬休み明けの課題テストの結果が返却されてきたが、次男君、英語が「頭を抱えたくなる」大惨事であった。


「高校生時代の学習態度」を問われると、私の方が次男君よりはるかに態度が悪かったのだが、要領が良かったのだろう、ここまでひどいことになることはなかった。


どんな試験だったのだろうか?と思い、昨日の日曜日、次男君に


「課題テストの問題と、あんたの解答用紙を見せて」


とお願いし、どのような問題が出て、その結果が同だったのかを簡単に評価してみた。


単語の穴埋め、文法を考慮した語句の穴埋めはおよそ6割の正答率だった。正答率6割、というのは一見そこまでひどくないようにも思えるが、おそらく問題全体の中で、自身をもって「これ」と選択できたのは3割で、後はなんとなく「これかなぁ」と回答したのが6割くらいだったのではないか、と推測した。本人に聞くと、おおむねそんな感じだそうな。正しい文章にするための「単語並び替え問題」は2割程度。これは、彼の解答スタイルを変えることでもう少し上がりそうには思うが、英文法もかなり怪しい。


長文読解は2問出題されており、どちらも極めて厳しい状態であった。


出題された英文を読んでみた。どちらも出典は明らかにされていなかったが、一つは


「高校時代の授業で、初めてマザーテレサの活動のビデオを見て、強く心を動かされ、友人たちとインドのコルカタ(カルカッタ)にあるマザーテレサの活動拠点にボランティアに行った。世界中からたくさんの人が、その期間もまちまちでボランティアに来るので、正規職員である修道女さんは、たくさん押し寄せるボランティアの人たちを整理し、適切に教育することができていなかった。自分は何かできることを自分で探して、病重く、自分で食事を取れない人に食事を取らせる(注:食事介助ですね)ことをしていたが、その活動の中で、自分の中に「違う、私がしたいのはこういうことではない」という思いが目覚め、貧しい人たちに勉強を教える、というボランティア活動を行なうようになった。


そのように思えたのは、マザーテレサの施設で食事介助を受けていた人のおかげであり、ボランティア活動をすることは、自分が誰かに与える、ということだけでなく、その誰かから自分も「何か」を与えられていることだ」


という文章であった。


「今から、父と母は買い物に行ってくるので、その間にこの文章、読んで訳を書いておいてね。帰ってきたら一緒に文章を見ていこう」


と言って買い物に出かけたが、1時間ほど経って帰ってきても、和訳は1/3程度しか進んでいなかった。「文字に書く」ということで負荷はかかっているわけではあるが、全体で60分程度のテストである。1時間かけて和訳が1/3程度、という速度では、到底時間内に試験を終わらせることはできない。困ったなぁ、と悩んでいると、


「父、この文章、どういう意味?」と一つの文章を尋ねてきた。文章を見てみると確か中学生で習ったはずの”so~that…can’t…“構文だった。


「あんた、ここに”so”があって、形容詞があるやろ。それでこの後ろが”that”節やろ。“so~that…”構文やんか。中学生でやったはずやで」

「???…?」

「ほらっ!”too~to…”構文との書き換え問題、いっぱい練習したはずやろ?」

「ああっ!あれかぁ。思い出したわぁ」

「そう、あれやねん!」


と言いながら、がっくり肩を落とす私。なんで30年以上前に勉強した俺の方が、習ったばかりの君より知ってんねん。おかしいがな…(泣)。


と頑張って全文を和訳させた。そして設問を解いてもらった。文章の意味が分かれば解答は非常に容易である。テストで「間違いオンパレード」だった問題群も一度で全問正解である。


「お前、問題文、しっかり目を通していないやろ!」


と叱っておいた。しかし、この文章の本質「ボランティア活動は、活動者が支援者に何かを与えているだけではなく、支援者も活動者に何かを与えている」ということは高校生にとって学ぶべき内容だと思った。教育的な英文だと思った。


もう一問の長文も頑張ってもらおうと思ったが、次男君から


「英語は今日は頑張ったからもう勘弁して」


と言われたので撤退した。しかし、こちらの文章も内容の深い文章である。


「シカゴでのあるご家族の話。ご夫婦と3歳の男の子、6カ月の女の子の家族。男の子は動物、とくにゴリラを見るのがお気に入りだった。ある天気の良い日に、シカゴにある動物園を訪れた。その動物園では、動物の自然な姿を見てもらうため、動物を檻に入れるのではなく、人間が柵の中に入って安全な状態で、制約のない動物の姿を見てもらう、という構造を取っていた。男の子のために、ゴリラを観に行った家族。男の子は大いに喜んでいた。


6カ月の女の子がぐずったので、おかあさんがジュースを上げようと目を話したちょっとした隙に、男の子がどんどんと柵を登って行ってしまった。近くにいた人が「危ない!」と男の子を止めようとしたがちょうど手が届かず、上まで登り切った男の子はバランスを崩してゴリラ側の方へ頭から落ちてしまった。


男の子は頭から血を流してピクリとも動かない。また別の人がゴリラの飼育員に状況を伝えている間に、自分の子供ゴリラを背負った8歳の母ゴリラが、男の子のところに来て、片手で男の子を抱きかかえ、自分の子供ゴリラを抱えたまま、飼育員出入り口の近くに連れて行き、優しく男の子をそこに降ろし、また自分たちのところに帰っていった。飼育員がドアを開けるとすぐに男の子がそこにいたため、すぐ救助することができた。男の子は重症ですぐに病院に運ばれたが、数日後には容体は改善し、落ち着いた。


数日後、この出来事が「夜のニュース」で報道されると、「ゴリラの行動を素晴らしい」と讃える人や、感動的な出来事に涙を流す人もいた。そして、そのほとんどの人は、ゴリラのことと、自分たちのことを振り返ってこう考えた。(誤訳があってもいけないので、本文そのまま載せます)”What is she doing in the zoo? What is the difference between a gorilla and me?”」


という文章である。人間の立場から見れば、「ゴリラ」は観察対象であったが、「ゴリラ」側から見れば、「人間」が観察対象だったのかもしれない。母ゴリラの取った行動は人間が取るであろう行動と同じように行動したわけである。そういう点で「類人猿であるゴリラと、私たち人間の違いはいったいどこにあるのだろう?」というある意味哲学的な問いを投げかけている文章である。


英文の問題、という形にはなっているが、この文章から学ぶことは「英語」という視点以外でもたくさんあると思った。


英語の長文や国語の問題文で、テスト中に感動したことが何度かある。一番記憶に残っているのは、センター国語の模試で、小説文の問題で「鉄道員(ぽっぽや)」が出題されたときのことである。私は基本的には小説を読まないので、当時ベストセラーとなっていたこの本も読んだことがなかった。


問題文として取り上げられていたのは、高校生の少女が実は亡くなった自分の娘で、主人公のお父さんの胸に万感の思いが溢れ、という場面だった。恥ずかしながら、試験中、ということを忘れて、思わず涙してしまったことを覚えている。


出題者は問題文を選ぶときに、おそらく色々と考えているのだろうと思っている。単純な「ペーパーテスト」の題材、というだけではなく、問題文から何らかのメッセージを伝えたい、と思って選んでいるのではないか、と思っている。


出題者のそういう意図まで読み込めれば、上出来だと思うのだが、次男君の英語力ではまだまだ道は遠そうである(悲)。

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