第732話 スタートダッシュ。

私の職場の仕事始めは1/4だった。いわゆる「病院」は1/4が仕事始め、というところが多いだろう。もちろん、多くの病院、特に急性期病院は年中無休で救急外来を開いているが、それでも、1/4の通常外来が開くのを待って受診、とされる方も多い。なので、1/4の外来は、予想外に重症な方が受診されることがしばしばである。ラッキーなのか、アンラッキーなのか、1/4は私の外来担当日であった。前日の夜から翌日の惨事を想定して、ブルーになっていた。


年末年始の不摂生にもかかわらず、1/4は普段の起床時間である、5:50に起床できた。仏壇のお水を替えてお勤め、それを終えて、着替えをもってリビングに行くと妻も起床していた。朝刊を読みつつ朝食のトーストを食べて出勤。やはりいつもの朝より道を行き交う車は少ないように感じた。


職場につき、当直医から引継ぎを受けた。


「先生、2階でA型インフルエンザのクラスター発生です」


とのこと。ありゃりゃ。新年一発目から大変だ。


いつもは2階から回診を行なっていたが、それでは、どこかでインフルエンザウイルスをくっつけて3階の患者さんに接する危険性がある。回診の時に、感染力の強い疾患を持っている人を診察するのは一番最後、とするのは鉄則である。


年末の数日で自分の担当患者さんが数人増えたので、見落としなく回診をするように注意していた。年末年始で部屋の移動もあったようで、思わぬ部屋に思わぬ患者さんがいたりして、びっくりしたが、とりあえず3階の患者さんは、「落ち着いている人はそれなり、不安定な人もそれなり」という感じだった。ただお一人、老衰の患者さんがみまかられていた。長い人生、お疲れさまでした。


回診すると、そのあとはカルテ記載が待っている。患者さんのお話、診察所見、これまでの経過と今日の状態からのアセスメントとプランを考え、カルテ記載を行なっていく。


入院患者さんの薬の処方には、「定期処方」と「臨時処方」というたて分けがある。「定期処方」は、例えば血圧の薬など、基本的に入院期間中継続する薬の処方方法、「臨時処方」は例えば解熱剤のように一時的に数日間ほど使う薬の処方方法である。この二つは使う用紙が異なる。電子カルテであれば、薬の入力の際に「定期」か「臨時」かを選択して入力することになる。これも病院によってそれぞれルールが異なるが、当院では、木曜~土曜の間に、翌週の金曜日からの定期処方を記載する、というルールで運用しており、正月、GWはそれぞれ薬剤課から「このように処方してください」と指示が回ってくる。


私は普段から「木曜日」に定期処方を書くようにしているので、初日が「定期処方記載日」にもなっていた。現在、悪性腫瘍の終末期で、麻薬も使用しているので、処方箋を書くのが大変手間であった。


3階での回診、それにまつわるあれこれを終えて、2階の回診を行なった。幸いに、自分の担当患者さんにインフルエンザを発症した人はいなかったものの、同室者からインフルエンザの患者さんが発生していたので、「予防投薬」としてオセルタミビルを該当の患者さんに処方した。そんなわけで、回診を始めたのは7時過ぎだったが、朝回診をひとまず終えたのは8:50頃であった。外来診察中は、フェイスガードとN95マスクをつけている。病棟仕事の際は不織布マスク+フェイスガードなので、N95マスクを取りに医局に戻った。


自分の机の上には、出勤時にはなかったカルテの山が置いてあった。「医師の仕事の半分は書類仕事」という言葉を聞いたことがあるが、この言葉は正しい。患者さんを診察すれば、「カルテ」記載と、基本的には薬を出すので、「処方箋」を記載。希望があれば「診断書」を作成し、その他、月に1回は記載が必要な書類もあるため、基本的に医師は「書類」に追い立てられている。私は水性ボールペン(「万年筆」なんて柄ではない)を愛用しているが、1週間でボールペンの芯が1本使い切ってしまうほどである。


机の上のカルテの山を片付けるには残り時間が足りない。ということで、外来の用意をして、外来診察室へと向かった。


待合室を通って診察室に入るのだが、新年早々なのか、待っておられる患者さんはちらほらだった。


「病院の経営的には厳しいけど、個人的には、穏やかな外来だといいな」


と思いながら、診察を開始しようとした。すると臨床検査科の主任が外来に来られた。


「すみません。血液検査の機械がうまく動かなくて、緊急の血液検査ができません。よろしくお願いします」


とのこと。わぉ!なんてこったい!重症の患者さんの受診の多いこの日に、血液検査なしで外来を進めていくのはちょっときついなぁ、と思いながら診察を開始した。


外来が始まると、私の外来には、定期通院中の患者さんではなく、体調を崩した臨時受診の患者さんが来られていた。とCOVID-19の検査は可能なので、皆さん結果待ち。診療クラークさんが


「皆さん、結果待ちですよ」


と私に声をかけてくださった。患者さんが溢れかえっているときは、患者さんを診察することに追われて、余事を考えなくて済むのだが、手が空いてしまうと、「重症の方が来るのではないか」などと考えてしまう。


患者さんの検査が出てくると、やはりインフルエンザが流行しているのが分かる。2名インフルエンザの患者さんが続いたそのあと、3人目の患者さんで心配していたことが起きた。


主訴は「10日前から咳が止まらない。熱もある」とのこと。患者さんの希望で、診察前にインフルエンザとCOVID-19の抗原検査を行なっている(発熱外来の名残で、当院の外来では、発熱の患者さんで、検査希望があれば診察の前に抗原検査を行なうこととしている)が、結果はいずれも陰性、とのことだった。当たり前である。10日もたてば、COVID-19もインフルエンザも「治癒」である。カルテに記載のバイタルサインを確認すると、37度後半の発熱、収縮期血圧と脈拍数の逆転は起きていないが、SpO2が不安定なようである。看護師さんの記載では「SpO2 80~88%、手が冷たいから?」とあった。患者さんの問診表に、「『今出ている症状』にチェックをつける欄」を設けているが、発熱、咳、痰がでる、にはチェックがついているが、「鼻汁が出る」にはチェックがついていない。


この定義には、インフルエンザもCOVID-19も含まれてしまうが(それは特に問題ではないのだが)、いわゆる「風邪」は医学的には「かぜ症候群」とよび、その定義がきちんと決められている。それは(1)鼻の症状(鼻汁、鼻閉)があること(2)咳や咽頭痛、発熱などがあること(3)1週間程度で症状が治癒すること、の3点である。この「かぜ症候群」を満たすものの90%以上がウイルス性疾患であり、対症療法薬で管理すること、と教科書には記載してある。実際にこの定義を満たすインフルエンザもCOVID-19もウイルス性疾患である。


よく言われることだが、「かぜに抗生物質は効かない」というのはこういうことである。ウイルスに抗生物質は効かない。かぜ症候群を契機に、急性中耳炎や急性副鼻腔炎、時には肺炎を併発することはしばしばだが、「予防投薬」と言って、抗生剤を使っても、これらの続発疾患の発生頻度に有意差がないことも示されている。


閑話休題。なので、診察を始める時点で、この患者さんは「ただの風邪などではない。肺炎などをしっかり考えなければならない」と教えてくれているのである。


「よし!」と気合を入れて患者さんを呼び込む。後期高齢者の年齢であるが、普通に診察室に入ってこられた。ぐったりしておらず、重症感は見られなかった。


「おまたせしました。今日はどうされましたか?」


と問診を始めた。どうも先行するかぜ症候群などはなく、そのまま発症されたようだ。再度パルスオキシメーターを指に着けてもらうが、やはりSpO2は90%に満たない。ルーティーンとしての身体診察を行なった。外観は重篤感無し。咽頭に発赤なし、扁桃腫大なし。頸部リンパ節の腫脹無し。胸部聴診では右全肺野、左中肺野にもfine crackleを聴取、心雑音を認めなかった。心雑音を聴取せず。


持参されたお薬手帳を確認すると、地域の中核病院で降圧薬、利尿薬を処方されており、どうも心臓が悪いようだ。注意してかからなければ、と思うと同時に、身体所見からはそれなりの肺炎が疑われる。血液検査ができないのはつらい。胸部レントゲン正面、側面2方向をオーダーした。


血液検査がなく、胸部レントゲンだけなので、結果が出るにはそれほど時間がかかるわけではない。その間に別の患者さんを診察し、出来上がったレントゲン写真を確認した。


正面像では、右肺野に、心臓とのsilhouette sign陽性の広範なスリガラス~浸潤影を認め、左中肺野にも直径3cmほどのやや濃いめのスリガラス影を認めた。側面像では胸部前面に陰影を認め、左肺野の病変部位は分からないものの、右中葉には広範囲の肺炎像があると判断した。


患者さんを診察室に呼び込み結果を説明。


「レントゲンを撮ると、このように右に大きく、左にも影のある肺炎があります。入院が必要だと思うので、かかりつけの病院さんにお手紙をこれから用意して、これから診察してもらえるよう段取りしますね」


と伝え、酸素投与を開始して点滴室で待機してもらい、こちらはいったん外来診察を止めて、紹介状(診療情報提供書)を大急ぎで用意した。点滴室からは


「うち、奥さんと、障害を持ってる娘がおるから、奥さん、家から出られへんねん。『病院に行ってもらって』って言われても、困るなぁ」


と声が聞こえてきた。理由はよくわからないが、急を要する病状で、他院に転送しようとすると、このように「家族の都合がつかない」ということがよくある。「家族の都合がつかない」ということで受け入れに難色を示されることもないわけではないが、急性期病院の救急外来であれば、「路上で倒れていた素性も分からない人」を受け入れることも珍しいことではないわけで、「家族の都合がつかない」から「受け入れ困難」という理由にはならないだろう、と個人的には思っているのだが。


幸いなことに、この患者さんは、その病院のかかりつけの方であり、しばらくして「受け入れOK」の連絡がきた。向こうの病院から搬送車を出してくれる、とのことだったので、無事に適切な医療機関につなげることができて良かった。


その後、少し患者さんの来院ペースは上がったが、多くは発熱が主訴の患者さんで、ほとんどがインフルエンザかCOVID-19の患者さんだった。


受付終了の12時が過ぎ、しばらくカルテが回ってこなかったので、「無事終了かな?」と思っていたら、最後の最後で、主訴が「胸痛」の患者さんが来られた。


「マーフィーの法則」という言葉が、私の大学院生時代に流行したが、私にとっては「最後の外来患者さんは重症か、手間がかかる人」というのが一つの「マーフィーの法則」である。先ほどの、「重症患者さんを転送させようとすると、何かの理由で転送に手間取る」というのも、私にとっての「マーフィーの法則」である。


高齢の方では、非特異的な胸痛(心臓からくる胸痛らしくない痛み方)であっても、虚血性心疾患の可能性がそれなりに高く、また命を奪う“Killer Chest Pain”と呼ばれる5つの疾患については可能な限り確認するようにしている。なので、「胸が痛い」というだけで、もちろん、緩急の差はあるが、いろいろと検査を行なうことになる。


患者さんの病歴、身体診察から想定される疾患としては、両側の下部肋骨の肋間神経痛、というものが最も疑わしいものであったが、心電図、胸部レントゲンと、機械の修理が終了したので、血液検査も可能となった。各種検査をオーダーし、結果が出るまでの間に、先に昼食を済ませることとした。


患者さんの検査結果には特記すべき異常はなく、


「緊急を要するようなものではないでしょう」


と説明し、診察を終了した。私の外来はほとんどの場合、受付時間終了後から1時間ほど遅れて終了するが、その2/3くらいは「最後の患者さんに手間がかかった」というパターンである。


そんなこんなで、年明け早々の外来を終了した。

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