第708話 「餓死」とは驚いた!

いつものごとく、見出しで驚いたので少し文章を書くことにした。


Yahooニュース「80代親の「延命治療」を断ろうとしたら、妹から「餓死は嫌」と責められた」(太田 差惠子氏著)より引用


<以下引用>

 母親(80代)は誤嚥性肺炎を繰り返し、口からものを食べることが難しくなりました。医師から、胃ろうを造設して、直接胃に栄養を入れる方法を提案されました。Aさんは判断に迷い、医師に「胃ろうにしなければ、どうなりますか」と聞きました。医師は「餓死のような感じですね」とひと言。Aさんは餓死という言葉に驚きましたが、母親なら、「胃に穴をあけてまで生きたいとは考えないだろう」と推測。けれども、Aさんの妹は「餓死なんてさせられない。かわいそう。生きてほしい」と泣いて訴えました。話し合いは平行線に。

「母の真意はわからないし、妹が生きてほしいと言っているのに、私1人の判断で母の命を奪うことはできませんでした」。結局、胃ろうの治療をしてもらい、1年後に母親は亡くなりました。今も、Aさんは「あの判断は正しかったのかわからない」と気持ちを引きずっています。


<引用ここまで>


「医師の発言は重い」と思う。私もこれまで、たくさんの胃瘻造設の話をしてきたが、「胃瘻をしなければ『餓死』みたいになる」なんてことは一度も言ったことがない。胃瘻を造らない、という選択をした方に対しても、である。


動物の多くは「弱肉強食」の世界に生きているので、弱ってきた個体は捕食者に食べられる運命ではあるが、奇跡的にそれを乗り越え、天寿を全うするものは、食事も水分も取らなくなり、いわゆる「脱水」の状態で命を終える。それは「老衰」と言われる状態であり、「餓死」とは異なる状態と認識すべきであると思う。「餓死」は経口摂取できる全身状態にあるものが、食物、水分の不足によって死んでしまうことであって、「老衰」とは異なるものである、と言いたい。


終末期の「栄養」をどうするか、ということについては、悩ましいことも多く、どこかで「専門家」である医師の言葉に家族の気持ちは引っ張られる傾向がある。それはもちろん悪いことではない。だからこそ、「医師」はその説明については「言葉」に対して細心の注意を払うべきだと思っている。


個人的には、消化管が使える方で、代替栄養を行う方がよい、と感じる方については「胃瘻」を、数話前で話題に挙げた、消化管を使った栄養では十分に栄養が吸収できない方で、まだ終末期ではない、と考えられる方にはCVポートを、そして、年齢やADL(Activity of Daily Living:日常生活の活動度)などを考え、「この方は、代替栄養を行なうべきではなく、自然にお迎えを待つのが適切だろう」と考える方には「何もせず、このまま自然に看取りましょう」という提案をしている。


「代替栄養を行なわず、このまま看ていきましょう」という方のご家族に対しては、「動物は、人間も含めて本来は、命の炎が消えるときには、食事を取ることもやめ、水分を取ることもやめ、医学的には「脱水」の状態で亡くなっていきます。これが「自然」の流れであって、ここに不自然に「点滴」などの介入をしても、身体のむくみや胸に水が溜まったり、肺に水がたまると息苦しさも強くなるので、かえって本人にとってつらいこととなります。このまま、少しお口を湿らす程度の水分で、静かに看ていきましょう」とお話している。このような看取りの仕方、亡くなり方は「平穏死」と呼ばれることもある。


「何もせずに」ということになると、ご家族の方の心情としては「何かをしなければ」という思いがあるので、「無理に栄養を入れる」ことが却って本人の苦痛につながること、「何もしない」ということが「自然」の在り方である、と伝えて、家族の「罪悪感」を取るのが大切だと思っている。


「胃瘻を造るべきだ」と思う患者さんの多くは、当院に転院の段階で、経鼻胃管での栄養を行なわれており、ご本人の認知症の程度はあれど意識はある程度しっかりしていて、自分で経鼻胃管を抜いてしまうために、両手の拘束をされている、という方である。


自分自身が「経鼻胃管を留置」されたことは幸いなことにないが、「栄養投与の手段」ではなく、「治療」を目的として経鼻胃管を留置する、ということは「単純性腸閉塞」の方の第一の治療法であるため、経鼻胃管を留置することの苦しさは、ERで「腸閉塞」の診断で「経鼻胃管」の挿入を行なわれる患者さんから何度も聞いたことがある。「え~っ、やっぱりまたあのチューブ入れなあかんの?かなわんなぁ。あれ、ほんまにしんどいねん」とおっしゃられる患者さんに何度経鼻胃管を入れたか、記憶にないほどである。研修中のERでだったが、腸管の手術の術後、癒着性イレウスを繰り返し、一度癒着解除術を受けられたが、手術でさらに癒着がひどくなったようで、私の初期、後期研修中(もちろん私が初期研修で外科ローテート中も含め)で、20回近く腸閉塞で入院歴のある方がおられた。経鼻胃管の留置、腸管の減圧で1週間ほどで状態改善、退院となるのだが、またしばらくすると腸閉塞を起こされる方であった。その方に何度も経鼻胃管をERで挿入したが、そのたびごとに、上記のようにおっしゃられていた。多分本当につらいのだろう。経鼻胃管で栄養中の方が自己抜去(自分でチューブを抜いてしまうこと)されるのも、やはりしんどいからだろうと思う。


私が後期研修医としてトレーニングを受けているときには、経口摂取が極めて困難な状態の患者さんでは、一時的に経鼻胃管を挿入することはあるものの、原則として胃瘻、胃の手術を受けておられるなどで胃瘻が作れない方にはPTEG(食道瘻と略すことが多いが、正しくは「経皮経食道胃管挿入術」)を行なって、そのあと転院としていた。しかしながら、現在の職場では、多くの方が、経鼻胃管+自己抜去防止のための手袋による拘束、という状態で転院されてくるので、悲しくもあり、腹立たしくも感じている。


「何で胃瘻にしてあげないの?!」という疑問と怒りである。胃ろうを造設するのに不適切な病態があることはあるが、そうでなければ、一時的に痛みはあるものの胃瘻造設した方が、その後の本人の苦痛も、家族の管理も圧倒的に楽になることが分かっているからである。自分がトレーニングを受けているときに、配慮をして行なっていたことが行なわれることもなく転院されてくることに、モヤッとするものを感じてしまうのである。


閑話休題。繰り返しになるが、経口摂取が困難となった患者さんに代替栄養法を提案するとき、私は、経鼻胃管、胃瘻、CVポート、そして「何もしない」という選択肢を提示し、それぞれの利点、欠点をお話ししている。このような状況での、「専門家としての医師」の意見は重みがあり、それは視点を変えれば「誘導」ということになるかもしれないが、私は「そうせざるを得ない場合」にはCVポート、そうではないが代替栄養法を選択される方については、胃瘻を勧めている。もちろん「何もしない」という選択肢も前述のとおりその利点、欠点を説明している。これらの利点、欠点のお話をする際においても、「餓死」などという言葉は使わないし、「餓死」なんてことを思ったこともなかった。なので、「医師の口」から「餓死のようなもの」という発言が出たことそのものが、私にとってはびっくり仰天のことであった。


あまりに衝撃的な見出しだったので取り上げた次第である。

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