第706話 “DNAR”, “No CPR”の意味

命あるものはいつか「死」を迎えることは、この世の「理」である。今は高齢化社会であり、人口のボリュームゾーンが「高齢者」となっているので、医療の世界では、病を得た人の「最期の時」をどう過ごすのか、という事は大きな問題である。


私が医師になるさらに10年ほど前位までは、「医師は命を長らえさせることに全力を尽くす」というのが一般的な考え方であったようだ。EBMの言う言葉もまだ生まれたかどうか、という時期であろう。そのころには、亡くなりそうな方には、頑張って心臓マッサージをしたり、これは医学生時代に教科書で読んだ話だが、強力な強心剤である「アドレナリン(商品名:ボスミン)」を直接心臓に注射する、という事もされていたらしい(アドレナリンの心腔内注射は蘇生率を改善しない、というエビデンスが出たので、今は行わない)。


笑い話ではあるが、アドレナリン心腔内注射まで頑張った医師に対してご家族が「最期のとどめまで注射してくださってありがとうございました」とお礼を言い、医師がびっくり仰天した、という話がその教科書には書いてあったと記憶している。


時代は変わって、最近は厚生労働省が音頭を取って、「人生会議」という名前で「自分の人生の最期をどうしていくか、考えましょう」という動きとなっている。


もともとは“ACP(Advanced Care Planning)”という西洋での概念を日本に持ち込んだものである。よく聞かれることであるが、ヨーロッパやアメリカなどは「個人主義」が徹底している。「個人主義」というと語弊があるが、医療の世界では「最優先されるべきは『本人の希望』」というのがここでいう「個人主義」と考えてほしい。


なので、生前にご本人が作成したACPに基づいて終末期の医療が行われ、ご家族、親族もご本人の意思を最優先する、というありかたである。


ところが、日本などアジアでは、そこまで徹底した「個人主義」ではないのが現状である。本人の希望も大切、でも、ご家族の思いも大切、という事で、「家族の総意」という事が優先されることの多い社会である。実際問題として、ご本人の希望した内容であっても、それがご家族の希望とミスマッチ、ということになれば、医療トラブルの元となる。患者さん本人は旅立ってしまうが、家族は生きているから、訴訟も可能である、ということである。


なので、ACPの概念が当初日本の学会で発表された際には非常に抵抗感が大きかったことを覚えている。私が初めてACPという言葉を聞いたのは、10年近く前だったか、日本プライマリ・ケア連合学会総会のセッションだったと記憶している。発表者は京都大学医学部付属病院の看護師さんだったと記憶しているが、やはり大学病院は、比較的西欧に近い医療を行なっても、「大学病院」という立場で通ってしまうところがある。


この講演を聞いた、おそらく地域の医療機関で頑張って訪問診療など「看取り」も手掛けておられる年配の先生方から、強い批判の声が上がったことを覚えている。地域に近い医療機関であればあるほど、地域の「文化」の影響を考慮しなければならないからである。その先生方は、先に述べたように「本人の希望」と「家族の希望」をうまく摺り合わせながら、本人にとっても、家族にとっても「良い看取り」を行なえるように心を砕いておられたのであろうと思う。日本プライマリ・ケア連合学会は歴史が浅く、そういうところに出てこられるご年配の先生方は、すべからく、「自分が担っている地域医療をいかに良くすべきか」という問題意識をもって参加されているのだろうと推測している。


私個人は、京大病院の発表者と、地域医療を実践している先生方との衝突を「おかれている現場」の違いだなぁ、と思ってみていた。どちらの言うことも理解できるし、衝突する理由も理解できた。西洋の感覚、東洋の感覚の違いなど、差異を探せばいくらもある。新しい概念を別のところから導入する際には、そこを考えなければうまくはいかない。


そういう点で、厚生労働省が“ACP”を「人生会議」としたことはgood jobだと思っている。


閑話休題。そんなわけで、当院のような「亜急性期」を担う病院は、病棟には高齢者ばかりである。おそらく病棟に入院されている方の平均年齢、80代後半~90代前半になるのではないか、と思っている。そのような年齢になると、「年齢」そのものが「生命」に対しての大きなリスク因子である。当院で看取る方の多くは、「病状の悪化」による死亡だが、年に10人ほどは、原因不明、直前まで普段通りに過ごしていた方が突然に亡くなられる。


なので、入院時に、「病状の悪化で死が近づき、治療の術がない」場合や「先ほどまで元気だったのに突然心肺停止状態で発見された」場合などに、心臓マッサージ、人工呼吸などの「蘇生処置」を行なうか、「命を長らえさせるよりも、苦痛を取る」方向で看取っていくか、ということを確認している。認知症のない患者さんであれば、ご本人が「延命処置はいらない」ということが多く、ご家族による代理の意思確認でも、「命の最後で苦痛を与える治療は…、しかもそれを行なったからと言って元気を取り戻す可能性が極めて低いのであれば…」ということで、そのような状況では蘇生処置(具体的には、心臓マッサージ、蘇生のための薬剤使用、人工呼吸。心拍再開すれば、人工呼吸器管理と薬剤による血圧管理(これは当院でできないので、高次医療機関に転送となるが))は希望しない、と選択される方が多い。


このような方はカルテに“DNAR(Do Not Attempt Resuscitation:蘇生処置を行なわない)”、あるいは”No CPR(No Cardiopulmonary Resuscitation:心肺蘇生不要)“と記載しておくこととなっている。


前提として、「病態が悪化し、健康を取り戻すための治療の術がなく、患者さんに提供できる医療がいわゆる『延命治療』しかない状況」の時にどうするか」という話なのである。


西洋では、現在のACPの概念が広がってからは、終末期の医療についても細かな希望を要求することができるようになっていたが、これも歴史があり、かつては日本と同様に「何をさておいても命を長らえさせることを優先する」という時代があり、そこから、終末期には不自然ともいえる延命治療は不要ではないか、という考えが広がってきた。その時代では、延命治療を希望しない、と選択すれば、例えば、感染に対しての抗生剤治療なども「広い意味での延命治療」ということで、行なわない、という時代もあったと記憶している。


再度、話を戻す。第660話 「「緩和医療」の先にある「死」と、「安楽死・尊厳死」(3)」で取り上げた患者さんでは、私は、「患者さんは終末期で、現状から安定、安楽な状態に戻すことは不可能である」と判断して「緩和医療」を開始したところ、「看護師さん」から、「まだできることはあると思います」と提案されたことを書いた。私自身の中に、「これ以上できることはない。看護師さんの提案する治療を行なっても状態改善は望めないと推測する理由」があったので、それを伝えて云々、という話であったが、DNARやNo CPRの希望をどうするか、ということは、このような状況で判断すべきものである。


第705話で、先方の病院から、「この方はDNARのはずですが…」という話があった、ということを記載したが、この状況はこれまで議論した状況とは全く違う、ということを感じていただけるであろうか?


この患者さんは、現状で意思表示も可能であり、言葉でのコミュニケーションにも問題はない。経口摂取も可能であり(消化管をほぼ素通りだが)、「脱水」を改善できれば十分にある程度のQOLを得られるわけである。ただ、この脱水を放置すれば、命にかかわる、ということである。


長期的な視点を持たなければ、当院でCVラインを挿入すればそれで済む話である。ただ、CVラインは長期留置にはあまり向かない。1か月程度であればCVラインでもよかろう。しかし、この患者さん、脱水、吸収不全の問題を解決できれば、「年単位」の予後が予想される。それを勘案すれば、CVポートを作るのが適切だと判断したわけである。


なので、この方のCVポート造設について、「この患者さんはDNARだから」という理由で回避することは、本来のDNARの意図とは全く異なる話である。


随分長くなってしまったが、そんなわけで「それとこれとは問題が違うだろう!」とモヤモヤしたわけである。

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