第638話 「日本語」の消滅危機?

毎週日曜日の読売新聞朝刊、「本 よみうり堂」という書評のコーナー(とはいえ、3面を使ってるので、結構大きな企画です)を楽しみにしている。「読書」という行為は嫌いではないが、普段の生活では「読書」以上に優先度の高いことが多く、このコーナーのように、いくつかの新刊本とその書評が載っていると、書評を読むだけで、なんとなくその本を読んだ気分になる。もちろん、興味のある本は購入している。


今週の書評で、もっとも私の心に刺さったのは、「日本語が消滅する」(山口 仲美著、幻冬舎新書)に対する、川添 愛氏のものだった。


過去から、いくつもの言語が失われてきている。アイヌ語などもそうであろう。本書では、「日本語」についても消滅する可能性はゼロではない、とのことである。著者によれば、その可能性の中で最も高いと考えられるものは、「自発的に他の言語に乗り換えること」、だそうである。


実例の一つとして、パプアニューギニアの「タヤップ語」が挙げられているそうだ。数百年間地域で使われていたこの言葉は、「交易語」である「トク・ピシン」を取り入れてから数十年で消滅の危機に陥っているそうである。


そう考えると、第二次世界大戦後は非常に危険であった。GHQが強制的に「公用語」を「英語」としてしまう危険性はあった。戦後のある時期まで、少なくとも私が子供のころ、と言えば戦後30~40年ほどになるか、そのころまでは、例えば沖縄などでは、日本語の中でも「標準語化」が強く勧められ、方言を使うと罰として首から「方言札」をぶら下げさせられた、などということがあったわけである。GHQから強い「英語公用語化」の圧力がかかり、高等教育が全て英語で行われるようになっていたら、今頃は「日本語」は消滅、あるいは極めて弱体化していたであろう。「高等教育をすべて『母国語』で行うことができる」ことは、「日本語」の維持として重要な点であったであろうと思われる。


日本人の「英語力」が低いことは常に教育上の問題となっているのは事実であるが、それが本当に悪いことなのか、再考の余地はあるのかもしれない。母国語で「深く思考」できないものが、第二言語で「深い思考」をできるわけではない、ということである。もちろん、ある程度の高等教育を受けているものについては、それに相応する程度にバイリンガルであるべきである、とは思っている。


この書評を読んで、数日前に、ネットニュースだか、新聞だか忘れてしまったが、「国語力」という点で記載されていた記事が思い出された。


その記事は、最近の小中学生は、かつてに比べて明らかに「国語力」そのものが低下している、という記事であった。その状況は深刻で、日本語でもある程度の長文となってしまうと「読解」できない児童生徒が増えている、という記事であった。


「読書」という行為であれば、ある程度長い時間、文章の世界に没入する、あるいは文章の理解に意識を向ける必要があるが、その能力自体が極端に低下していることを、教員の側からは強く感じられ、「国語(日本語)」の危機である、という記事であった。


記事では、その原因として、TikTok、YouTubeのショート画像など、数十秒~1分程度で終わる電子情報の普及が大きいのでは、と推定していた。それらは前述のように短時間で決着がつくものである。当然表現も直接的で、行間を読む、などということも必要としない。今の小中学生はいわゆる「デジタル・ネイティブ」であり、そのようなものに常に触れているわけである。そのようなスピード感を「普通」と感じるものにとっては、「読書」であったり、場合によっては「映画」などでさえ「間延びして、まどろっこしい」ものと感じているのではないか、という指摘であった。


そのような短時間の細切れ、の情報で周囲が満たされれば、発達途中の頭であれば、そこから情報を取捨選択し、物語として再構成する、という行為そのものがトレーニングされていない状態ではないか、ということが記事の指摘であった。


確かにその影響は大きいのではないか、というのが私の感想である。スマホの動画の中毒性は恐ろしいほどである。我が家の子供たちは高校生であるが、スマホの動画を見始めると、スマホから手が離せなくなる。「お膳立てをして」「〇〇を持ってきて」などと伝えても、彼らの手からスマホは離れない。動画を見ながら指示のことを行なおうとしている。私や妻が「何をやっているんだ」と注意するまで、自身がスマホから手が離せなくなっていることさえ気づいていないように感じるほどである。なるほど、これほどの中毒性なら、歩きスマホや自転車スマホがなくならないわけだ、と痛感するほどである。


閑話休題。人間の思考過程には、「言語的思考」と「非言語的思考」が併存していると思われる。論理的思考であればあるほど、「頭の中」で「発語されない」言葉での論理構築が行なわれていることに気づくことがあるだろうと思う。帰納法であれ、演繹法であれ、脳内ツールとしては自分自身の最も深いところにある言語を介して思考が行なわれているように感じている。


今日の書評、数日前に読んだ記事を思うにつけ、「日本語」という言語の危機であると同時に、「言語」そのものの危機が目の前にあるのでは、と危機感を持った次第である。


ちなみに、数日前に読んだ記事については、解決法の一つとして、小さいころからの「絵本の読み聞かせ」や「昔話を語ってあげること」として挙げていた。子供たちが自身で、「長文」に触れようとしなければ、周囲の大人たちが、子供たちを「長文」に触れさせ、ある程度の文章量を重ねなければ表現できないものが存在すること、を無意識の中に教えてあげなければならない、ということである。


今も、中間試験期間真っ最中の次男が、YouTubeで音楽を流し、1時間以上歌い続けている。やはりスマホの中毒性は高いと思われる。頭の痛いところである。

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