第635話 「センチメンタル」は要らない。

秋田県美郷町で、畳屋さんの作業小屋に熊の親子3頭が入り込んでしまう、という事件が発生した。三頭の熊は町、警察、猟友会の設置したオリに、翌日に入っていたそうだ。三頭の熊は捕獲後、殺処分となったそうだ。


このことについて、秋田県庁に、秋田県外からたくさんの苦情が殺到している、とのニュースを見た。


この一件について、私の感想を最初に書いておきたい。


「人間も含め、動物はすべて『食物連鎖』の中にいる。「強力な銃」を持たない「人間」と「熊」が対峙した場合には、「人間」は「食べられる側」、熊は「食べる側」にいる。なので、「人間」が「安全に」生活を営みたいと考えるなら、「人間の捕食者」となりうる「熊」が「人間の住む空間」に現れた場合は、徹底的に「殺処分」としなければならない」


数日前に書いた駄文「第631話 ロボットテクノロジー、幸せな誤解と般若心経」で触れたことだが、「ペット、あるいはパートナーアニマル」と「自分」の気持ちが「通じ合う」ことは、動物行動学的な視点から見れば、「考え難い」ということである。つまり、人間側が勝手に「気持ちが通じ合っている」と感じているだけである。私はそれを「幸せな誤解」と書いたが、「人間との生活」にきわめてよく適応した「イヌ」や「ネコ」であってもそうである。他の動物であれば、なおさらである。


「森のくまさん」の歌が影響しているのか、「クマのプーさん」の影響か、わかやま けん氏の代表作である「こぐまちゃん」シリーズの影響か、はたまた「リラックマ」のためなのか、あるいはテディベアが影響しているのか、一般の人が「クマ」に持つ印象は悪いものではないことが多い。かわいい系のキャラクターとして使われることも多い。


しかしながら、実際の「クマ」は、種類によらず極めて危険な動物である。知能が高く、運動能力に優れ、攻撃力も防御力も高い動物である。言語を扱い、様々なものを作り出せる、という「知能」という点では人間に分があるものの、その他の項目ではボロ負けである。まともにやり合えば勝ち目はほぼない。


近年、「クマ」などの野生動物が人里に降りてくることが増えているそうである。人間の開発によってクマの居住域と人間の居住域が接近してきたのが理由、という意見もあれば、「クマ」が「人間」を恐れなくなったのが理由、とする人もいる。個人的にはその両方だと考えている。今回の「クマが入り込んだ」騒動でも、作業小屋で作業していた主人はあわてて逃げて難を逃れたが、作業小屋の中にいる親子熊は、「訳の分からないところにいる」と恐怖で取り乱すわけでもなく、人が小屋を取り囲んで、あの手この手でおりに入れようと頑張っても、どこ吹く風だったようである。


野生の動物は、当然のことながら出会った他の動物の危険性を本能的に判断している。そうでなければ生き残っていけないからである。熊が人間と接触する機会が増えれば、「人間」という生物の特性を判断する。「自分より小さい身体」「自分より弱い筋力」「自分よりはるかに劣る運動能力」と判断されれば、たとえその場で攻撃されずとも、人間を「怖いもの」とは判断しなくなるのは道理である。


「殺処分」のニュースについてのYahooコメントをいくつか読んだが、その中に「何も分からない人間の世界に来て、さぞ怖かったことでしょう」と熊を慮った文章があったが、これこそ「幸せな誤解」である。


人里は道路が整備されているので、山の中に比べて圧倒的に移動が容易である。田園地帯、とニュースに出ていたので、その気になれば食べ物はいくらでもある。そこに住んでいる動物(人間)は、どう見ても、自分より弱そうな生き物である。よくわからない場所に入り込んでしまい、周りで騒がしい音は鳴っていたが、別に痛い思いをしたわけではなく、よくわからない箱に入ってしまった、というのが熊から見た視線であろう。このまま熊を野山に解放したところで、熊は「人里は恐ろしいところだ」とは学習していないだろう。むしろ「安全な場所」と判断して、再度人里に躊躇なく降りてくるであろう。


そして、何の武装もしていない人間と対峙した時に、「人間」と「熊」のどちらが勝つか、容易に想像がつくだろう。


実際に熊と遭遇し、人間が被害を受けた、という事故は今年は最多だそうである。


丁度昨年の今頃だっただろうか、子熊のころから愛情をかけて育てていた熊に飼い主が殺されてしまう、という事件があったように記憶している。おりから出てウロウロとしていた熊は射殺されてしまった。


この事件の報道では2通りのコメントがあり、一つは「子熊」のころから育てていても、「人間」と「熊」のあいだに「愛情・友情」という感情は生まれない、という意見、もう一つは「熊の飼い主に対する愛情ゆえに、飼い主が死んでしまった」というものであった。前者については説明は不要だと思うので、後者の意見に補足したい。


「熊」という生き物は、仲間同士で「愛情・友情」を確かめる行為として「相手を嚙む」ということを習性として行う動物だそうだ。もちろん熊同士でじゃれ合ったりもする。


ご存じの通り、熊の爪は鋭く、皮膚はとても厚い。


なので、この熊は、飼い主に対して強い愛情をもって、「熊同士」のコミュニケーションとして、噛みついて、じゃれ合っただけのことで、飼い主を殺そうとする思いは全くなかった、という意見だ。熊としては自分の愛情を飼い主に伝えたところ、飼い主が死んでしまい、熊自身が戸惑っていたのではないか、という見方をしていた。熊がおりの周り、すなわち飼い主の周りをウロウロしていたのは、熊自身が「起きた現実」を理解できなかったのでは、という見方であった。


どちらが正しいのかは分からないが、仮に熊が人に愛情をもって接してくれたとしても、その熊の「愛ある」振る舞いで、簡単に人間は死んでしまうのである。


そのような動物が、人間の生活圏にウロウロされてはたまったものではない。その地域の「人間」という種の危機である。


安易なセンチメンタルは要らない。「人間社会」を「安全」に維持したければ、殺傷能力の高い動物を決して生活圏に入れてはいけない。「熊」と「人間」の共存、なんて絵空事である。食物連鎖で考えれば、人間はその身体能力を考える限り、「熊」に食べられて当然の生き物なのである。


「熊の殺処分」が残酷であること、罪深いことであることは十分理解の上である。人間社会の「安全」を確保するための「必要悪」であり、人間の「エゴ」であるのは十分承知の上である。そのうえで、「熊」に「人間」が傷つけられ、殺されてしまうことを避けたければ、「人里に降りてきた熊」は「ことごとく殺処分」とせざるを得ないのである。


かつては重篤な疾患の病原体を運ぶ、と言われていたGも、最近は社会が無菌化しつつあるので、病原体の運搬、という点ではあまり大きな役割を果たさなくなっている。なので、単純に「見た目が気持ち悪いから」という理由で、バシバシとGを殺している人間たちである。また、完全な「ビーガン」という人も少ないだろう。肉を食べている、ということは、その動物を「殺して」いるわけである。


そういう点で、私たち人間の手は、全員、「血塗られた」存在であり、「生きていく」ということは、本質として他の命の犠牲の上に成り立っているのである。


3頭の熊を殺処分することになったことについて、その責任は、猟友会でも、警察でも、市町村でも、県でもなく、「安全な人間社会」を希望する私たちなのである。


と思うので、秋田県庁に殺到している批判の電話、掛けてくる人にとっては「熊」の「脅威」は他人事なんだろうなぁ、と残念に思う次第である。

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