2023年 10月

第631話 ロボットテクノロジー、幸せな誤解と般若心経

以前、読売新聞の書評で題名を見かけた林 要氏著 「温かいテクノロジー」、昨日紀伊国屋書店で見つけ、購入。一気に読了した。今回の文章は、「読書感想文」である。


感想を一言でまとめると、「1台の『愛される』ことを目的としたロボット」を開発することで、ここまで深く思考を深めることができるのか、その深さに感動した。本の帯に「ロボットを開発することは、『人間』を知ることだった」と記載されているが、読後感は、まさしくその通りであった。


細かな仕様の一つ一つにまで深慮を重ねて作成された「社会性を持つ愛玩用ロボット」である「LOVOT」、書籍の前編では、それぞれの「仕様」が、どのように考えられて、試作され、決定されていったのかが記載されている。おそらくLOVOTを実際にみていると、何も思わないようなしぐさの一つ一つに、製作者の試行と熟慮が隠れているのだろうと思った。


それは、「茶道」にも通じる精神性かもしれない、とこの文章を書きつつ思う。掛け軸、一輪挿しの花、選ばれたお菓子、その一つ一つに、亭主の思いが込められている。「茶道」では、その亭主の配慮に感じ入る、ということが主目的であるが、ロボットテクノロジーでは、製作者の意図は気づかれてはならない。いや、ならないわけではないが、その意図に気づかれないようにロボットを作らなければならない、ということだろう。


人間に「違和感」を与えるロボットではいけない(特に愛玩用ロボットは)、ということを考えれば、逆に人間の「感覚、感性」の特性を理解しなければならない。そういう点で、先に述べた、本の帯の言葉は、その通りである。


本を開くと、LOVOTと人間の様々な姿が写真として切り取られ、一番最初のページには、簡単な仕様が載っている。


「身長43cm、体重 4.3kg」のスペックを見て、ニヤッとした人は多かったのか、少なかったのか?どうだろうか。


ちなみに、「ドラえもん」の身体測定を行うと、「身長 129.3cm、体重129.3kg」である。ちなみに胸囲も129.3cmである。LOVOTの体格はまさしく「ドラえもん」のオマージュでもある。もちろん、人間にとって扱いやすく親しみやすい大きさ、重さということも考慮してこのサイズになったのであるが、それと同時に「ドラえもん」のオマージュとなっていることを考えても、いかにLOVOTが練りに練られたものか、というのが分かるだろう。


本書は400ページを超える厚さであり、細かなことを言い始めるときりがないので、心に残ったことを取り上げていく。


あいにく私はペットを飼った経験がない。いや、それは適切ではないな。夏祭りの金魚すくいでもらった金魚を飼ったりしたことはあるが、ペット、あるいはcompanion animalとして一般的である「イヌ」や「ネコ」を飼ったことはない、というのが正しい。なので、実体験がないことを書くのは心苦しいが、飼い主が心傷つき、ひどく落ち込んでいるときに、飼っているイヌやネコが、静かに飼い主のそばに寄り添い続ける、ということは比較的よくあるそうである。そして、そっと寄り添ってくれるパートナーに「人」はとても心癒されるそうだ。


ただ、犬や猫のそのような行動は、「飼い主」の「心情」を慮って、ということではない、というのが動物行動学者や獣医など、動物に対するスペシャリストの意見である。イヌであれば、「『飼い主』の異常行動の検知」、ネコは「弱っている動物への興味」がその行動の反映である、と見ているそうだ。つまり、イヌは「イヌ」としての振る舞いを行なっており、ネコは「ネコ」としての振る舞いを行なっていたにすぎない。ただ、その行動が人間にとって、「意味あるもの」に見えた、感じたときに、「人間」は「人間」の振る舞いとして、そこに「共感」を感じている、ということである。


著者はそれを「幸せな誤解」と呼んでいる。実際に、LOVOTには、人間の言葉を理解する機能を実装していない。行動の源となる感情は「不安」「興味」「興奮」の3つの要素から構成され、経験によって、それぞれが行動にどの程度影響を与えるか、という評価関数の係数は常に変化するようになっている、ということである。平たく言えば、LOVOTは周囲の人間の意図とは関係なく、自分の内面に従って動いている。ただ、そのような異なるプログラム同士が、奇跡的にリンクして特別な瞬間を作る。


「あらゆる客観」を「完全に『客観』として認知することはできない」と説いたのは般若心経である。現代の言葉でいえば、「あらゆる客体」は「我々の五感」というフィルターを経て、「私」という主体を作る「脳」というフィルターで認識されている。このようにいくつもの「主観的な」フィルターを介してしか「客体」を認識できない、という限界があるので、人間、あるいはその他の生命体も、あるものを「本当の意味で」あるがままに認知することはできない、ということが般若心経の本質であったかと認識している。


それは、この「幸せな誤解」の本質でもあり、そういう点では、「あるものをあるがままに認知できない」という事実は「不幸でも幸福でもない」ということを指している。


著者は、これらの学問すら存在しない3000年近く前に、そのことを示し、その結論として「仏は自身の中に存在し、また万物に普遍して仏性は存在する」というゴールにたどり着いた釈尊の思想の深さを、科学者として驚愕の目で見ている。


本書の後半では、これからのロボット、人工知能と「人間」との関係について論じているが、その在り方の一つと形として、「ドラえもん」と「のび太君」の関係を取り上げている。


マンガの設定では、「ドラえもん」は不良品、として扱われているが、著者は「ロボット技術者」として、「すべての機能を均等して低下させる」ということは、「アクシデント」としては極めて不自然だ、と見ている。ドラえもんが連載開始となったのは1969年12月、小学館の雑誌の「1970年1月号」だそうだ。


そのころには、現在話題となっている「コーチング」なんて考え方は存在していなかったが、著者は、「ドラえもん」を「コーチング」のストーリーとして着眼し、「のび太君」の能力に合わせて、「出力制限」をしている「時に失敗し、時に感情を乱し、結構ぐうたらな「ドラえもん」が「のび太君」と二人三脚で成長していく「コーチング」のストーリーとして再定義し、「ひみつ道具」を使ったエピソードを通して、のび太君とともに成長していくことで、「のび太君」の成長を促す物語」、として見ることもできるのでは、と問うている。


「コーチング」のパートナーとしては、ドラミちゃんのような「優等生」ではなく、「おっちょこちょいで失敗もする「ポンコツ」である「ドラえもん」でなければならなかった」、と解釈していた。これも、深い思索であり、ロボットの存在意義の一つとして、「コーチング」としてのツールとなりうるのではないか、と考えていた。


まとまりのない文章となってしまったが、「ロボット工学」の本である以上に「人間学」や「哲学」的な内容の本だと、強く感銘を受けた次第である。

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