第617話 「自己実現」(やりがい)によって搾取される人々(読書感想文)

以前にもどこかで書いたことがあるが、我が家はたくさんの図書を借りてきて、たくさん読んで、たくさん返却することを繰り返している。その中で、目に入ったものを私はたまに手にしている。



今回手に取ったのは、平凡社新書 榎本 博明著「自己実現という罠 悪用される「内発的動機付け」」 という本だった。


学生を終えてからずいぶん時間が経っており、私の学生時代には「キャリア教育」なるものもない時代だったので、今一つ実感がないのは承知の上だが、学校でのキャリア教育の中では、「やりたいことを見つける」であったり、「5年後、10年後の自分の姿を考える」などという形でキャリア教育がされているようである。


ところが、現実としては「やりたいこと」を「仕事」にできる、ということはめったにあることではない。「5年後の自分のキャリア」なんて言われても、自分の5年目のことを考えると、与えられた仕事をこなすことに必死で、もちろん、目の前には「総合内科専門医取得」という目標かつ課題がぶら下がっていたが、そんなことよりも、まず仕事を回すことに必死であったと記憶している。


著者は、前述のような「やりたいことを見つける」「5年後、10年後の自分の姿を考える」などというキャリア教育に対しては、否定的な見方である。そのような教育の中で、言葉として「自己実現」や「自己の成長」などという、ある種明確に定義が難しい言葉が飛び交っている、ということも指摘していて、それがいわゆる「やりがい搾取」につながっていると指摘している。


「メーテルリンクの青い鳥」を出すまでもなく、「自己実現」あるいは「自分探し」という言葉は、美しい響きの一方で、その内容は実際には「空虚」である。例えば「自己実現」とは、具体的には何を指しているのだろうか?それは「職業」という形でしか実現できないものなのだろうか?と問うても、明確な答えが返ってくるわけではない。


「自身の成長」と言っても、同様である。例えば、「医師」という職業は、ある意味「職人」でもあるため、「それまでできなかった技」ができるようになれば、それは「職人の技術の成長」と言えるだろう。ただそれは、自身のほんの一部であって、労働世界において多用されている感のある「自身の成長」とは、ずれている印象を受ける。


本書では、そのような例を挙げて、本来労働者は「労働力」を提供する代わりに「対価」としての「給料」を受け取る、というルールで成り立っている労働市場が、「対価」としての「金銭」ではなく、「自己実現」や「自身の成長」という「実体のない言葉」をさも価値があるかのように持ち上げ、本来支払われるべき対価を「搾取」している、と指摘している。


「人はパンのみに働くにあらず」と確か聖書には書いていたと記憶しているが、逆にこの言葉は「人が働く一番の理由は『パン』のためである」ということがベースにあることが前提となっているからこそ意味のある言葉である。「やりがいだ」「自己実現だ」「自己の成長だ」という言葉で、本来もらうべき報酬を与えられないのは「搾取」であろう、というのが著者の意見であり、それについては私も深く同意する。


おそらくこの本は、「高校生」「大学生」など、「就職」を目の前にした若い人たち向けに書かれた本だろう。ということで、一般的な「キャリア教育」とは異なる視点から物事を見てみるには、ためになる本だと思った。


「自分探し」をせずとも、自分が気付いていないだけで、周りから見れば、自分の言動から「自分らしさ」がプンプン匂っているのである。「自己実現」って自分の「何」を実現するのだろうか?「成長」の具体的定義は何だろうか?


一部の企業が、「自己実現」「自身の成長」を錦の御旗のように掲げ、安価な労働力を得ている現実に対しての「警告」として良い本であったと思った。


医療の現場もかなりの「やりがい搾取」現場である。特に若い医師にとっては、たくさんの疾患の経験を積むことで、医師としての「技術的能力」としての「成長」を感じられるため、適切な賃金が支払われないことが多い職場である。


大学医局での大学院生などは、ある意味ひどいものである。「大学院生」ということで大学に授業料を払い、研究の傍ら、診療にも参加(しかも非常に貴重な戦力)し、その一方で、大学側からはその「労働」の対価としての給料は支払われない(だって、授業料を払う学生ですから)。これも「労働力搾取」と言えよう。


しかしその一方で、「症例を経験する」ということ自体が「自己研鑽」であり、自身の「診療能力」を鍛えることでもあるから、どうしても「仕事」と「自己研鑽」を明確に区別はできない。これがつい最近発生した「専攻医の自殺」事件の本質の一つである。


自分自身の仕事の在り方も含め、日ごろから感じていたモヤモヤに対して、適切な回答を与えてくれた本の一冊であった。

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