第603話 義父の一周忌

昨年の9月に義父が亡くなって、早1年である。どういう因果か、妻の家族で、折り合いの悪かった義父と妻が残り、妻が義父を見送ったのはもう昨年のことになってしまったのか。


義父の一周忌は妻の強い意向で、家族のみで行なった。なので出席人数も私たち家族だけである。法要の際には、一族で仏間を借り切って行なうことが一般的なのだろうと思う。一族郎党が集まればそれだけ人数が集まるからであるが、今回の法要は、「合同法要」という形で、無関係な他の家族とともに、まとめて法要を行う、という形式をとった。


私は、父が早世したので、余事に疎く、こういった法要のことなどは全く知識がなかった。妻と結婚してすぐの時、妻の母方の祖父の法要があったのだが、しきたりに疎い私は、ダークなスーツに、深い紺のネクタイをして出席した。お葬式のように「喪服」を着る、なんて知らなかったからである。


叱られることはなかったが、義母の親族は義母の弟(叔父)が総領となっており、お正月などは、声をかけていただいているのだが、叔父さんを始め、叔父さん家族は皆喪服姿で、大変恥ずかしい思いをしたことを覚えている。それ以降は、叔父さんを見習い、法事の際も「喪服」で参加している。


閑話休題。昨日は「合同法要」ということで、うちの家族と、別の家族で法要を行なった。当方は1周忌、もう一方のご家族は13回忌、とのことらしい。


法要出席者が全員仏間に集まった時に、少し驚いた。というのは、もう一方のご家族は完全に普段着だったからである。


それを咎めよう、とか、そういうことは思っていなくて、「いろんなスタイルがあるのだなぁ」と驚いた次第である。恥ずかしながら、本来は父の法要は私が中心となって行うべきなのだろうが、もうその辺はグダグダになってしまっていて、父の眠っている墓苑に行くときも、全員私服で向かっているので、私の方がよほど「適当」である。毎日仏壇に向かっており、それで十分だと私は思っているので、「弔い方もいろいろだなぁ」と思っているが、叔父さん、きっちりしてはるなぁ、と改めて思った次第である。


合同法要が終わると、今度は墓前での読経がある(「セットになっている」というとあまりに俗っぽいか?)。そんなわけで、今度は家族で墓前に移動し、僧侶がお見えになるのを待っていた。10分ほどで僧侶がお見えになり、読経、焼香を行なった。いつも、読経の後は「法話」があり、今回は、妻の「数珠」と私の持っている「数珠」が異なっていることに僧侶が気付かれ、天台宗から浄土宗、浄土真宗、というお話をされた。


奈良時代の仏教伝来について、伝教大師 最澄と弘法大師 空海を欠かすことはできないが、空海が開いた高野山 金剛峯寺は「真言密教」の総本山という位置づけになったのに対して、最澄の開いた比叡山 延暦寺は、天台宗自体は法華経を依経とした宗派であるものの、浄土三部経など、浄土宗につながる教えを持って帰っていたり、伝教大師の後には「密教」も導入したり、と、ある種「仏教の総合大学」的存在になっていたことは否めないと思われる。鎌倉仏教の開祖である法然、親鸞、日蓮、栄西、道元なども延暦寺に学んでおり、この点でも、延暦寺が当時の仏教の「総合大学」であったことは確かだろうと思う。


またもや話題を変えるが、「浄土真宗」の教えである、「絶対他力」という考え方、改めて、「諸刃の剣」だなぁ、と感じた。


今の時代、「唯物論」という言葉も死語になっているが、「人間は努力次第で何でもできる。できないのは能力不足や努力不足である」という「新自由主義的」思考が広く行きわたっているという印象を受ける。


「人間の決め事」であれば、「人間の都合」でどうとでもなるが、「自然の摂理」の前には「人間ができること」なんてたかが知れている。私のように「臨床医」として、教科書通りにはいかない高齢者に対して、ああでもない、こうでもないと試行錯誤を繰り返しながら、日々を暮らしているものには、「人間の無力さ」は常に痛感するところであるが、「人間の決め事」の中のことを生業としている人の中には、そういったことを「理解しない」あるいは「頭で分かっていても、根っこのところで理解できていない」人に出会うことがしばしばである。


「人間は努力すれば何でもできる」と固く信じている人に対して、「絶対他力」という思想は強い「アンチテーゼ」となり、空想である「人間の万能感」を打ち破る利剣としての働きがある一方で、「絶対他力」を進めていくほど、「人間の無力感」が強化されていくことになる。これはこれでよろしくないことだと思っている。「人間の力ではどうにもならないこと」はあるが、それでも、「何かに向かって努力することには意味がある」ということに対しては、その前向きな思いを切り捨てる刃ともなってしまう。


仏教では「中道」「中庸」が尊重されている。「極端に流れない」というありかたはとても重要な視点であると思っている。という点で「他力」という時点で、極端に走っている、と言えなくもないのでは?と思ったりした。


そんなことをつらつら考えた法事であった。

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