第597話 どちらも原因は「人手不足」ではないか?

ニュースになったのは、今月の上旬だっただろうか、神戸の病院に勤務する消化器内科専攻医1年次(医師歴としては3年)の男性が、過労による自死が問題になったのは。


その後、続報が続き、「第三者委員会」の答申を病院側が、「遺族に公開しない」など、いろいろとスッキリしないことが続いている。今朝の朝刊では、管轄の労基署が認定した時間外勤務が「月207時間」と認定したことに対して、病院側は「本人が申請した残業時間は30時間、あとは自己研鑽の時間」と認識の相違が存在している。


以前にも書いたが、初期研修医の労働時間は厳しく条件が定められており、給与についても厳しく規定されており、労働時間、収入とも守られた存在となっている。


もう初期臨床研修必修化から、来年度で20年が経つ。私はその初年度にあたるので、それ以前の初期研修医の働き方(大学病院ではなく、それまでも研修医教育の実績のあった市中病院で研修を受けた)と同様の仕事を求められ、労働時間については、結構いい加減なものであった。給与については、私の研修病院では必修化以前から、初期研修医についても規定にあたる程度の給与が支払われていたので、それについては問題なく必修化に移行できた。


私の修業した病院は、そういうわけで、初期研修必修化についても、それまでのノウハウが蓄積されていたので、指導医側が右往左往することはそれほどなかったが、大学病院などは大きく影響を受けていた。従来初期研修医が担って来た仕事の多くが専攻医(後期研修医)に負荷としてのしかかってきた。


アメリカでも「初期研修医」は労働時間については厳しく制限されており、そのあおりを若手の専攻医(後期研修医)が担っていることが問題となっていた。


少し脱線したので、本題に戻りたいと思う。


医療機関は一部を除いて、慢性的に人不足である。これはなかなか複雑な問題で、「人を増やせばよい」という単純な話ではない。「医師」については、その資格を持っていても全く医療にかかわる仕事をしていない人、というのは圧倒的な少数派であるだろうと推察している。大学の基礎医学系研究者(とて、アルバイトとして臨床をせずに生計が成り立つ人は一部であるが)、製薬会社などで、「医師」の資格を有することが必要、あるいは望ましいとされる職種(治験のリーダーなど)、医療を基盤とした新規ビジネスの経営者、あるいは全く畑違いの職種についているものなど、少数派であろう。


医師については「医療機関の医師」に対して要求される仕事量と、「医師の数」のアンマッチで、その仕事量をこなそうとすれば、「時間外労働」をしなければ回らない、ということがある。例えば、一人の医師が「定時」でこなせる仕事量を仮に“8単位”と考えてみる。4人の常勤医がいれば、定時にこなせる仕事量は“32単位”となる。しかし、ほとんどの場合、医師に与えられる仕事量は総量で“50単位”などと過剰であることが多い。そうなればどう考えても、「業務時間内」に仕事が終わるわけがない。


「医業」に限らず、どのような仕事でも、「自己研鑽」を積まなければ、skill upは望めない。私自身も、外来や病棟で経験した興味深い症例、あるいは、「問題点」を複数抱えた患者さんなど、「教育的」と思われる症例は、症例をまとめ、院内カンファレンスで共有したりしている。本来であれば、各学会の地方会に提出しても悪くはないと思ったりするのだが、そこまで頑張ると、一応「病後」である私自身の負担となる、と思ってそこまでしないことがほとんどであるが、「院内カンファレンス」提示症例であり、学会ほど厳しくはない症例提示であったとしても、それなりに準備が必要である。


専攻医(後期研修医)の時期は、「専門医」を習得するために、複数回の学会発表を要求されている。それに、なぜ「専攻医」になるか、というと「専門医」になりたいから、であって、それを踏まえると「専攻医」を卒業するために「学会発表」を行なうのは「自己研鑽」でも何でもなく、「専攻医」を終えて「専門医」になるために必須のことであり、「専攻医」に求められる「業務」である。


医師の仕事はそういう点で、「自己研鑽」と「業務」の境目があいまい、あるいは「存在しない」と言い切ってもいいのかもしれない。私のように「専門医」の資格を取って10年以上、という人間でも、日々の診療の中で新たに学ぶこと(これは「医学的知識」に限らない)は多々あり、大きく出るならば、日々の「診療業務」は「医師として行うべきことを行なう」業務としてだけでなく、「病気を抱えた」人と向かい合い、困難を分かち合うことで「私自身」を高める「自己研鑽」の場、ともいえよう(実際はそんなに「人間のできた」私ではないが)。


医師歴20年にならんとする医師が、日常業務について「業務」と「自己研鑽」の区別ができない、と言っているわけである。専門研修を始めたばかりの「初年次専攻医」にとっては、いわゆる“On the Job Training”、「業務」として触れるすべてが「自己研鑽」にもつながり、また逆に業務時間外の「自己研鑽」が「業務」の質を上げることは事実であろう。


人によっては「『医師』は『職業』ではなく『生き方』だ」という高名な医師もおられるわけである。そうなれば、「業務時間」なんて言う概念は存在せず、24時間すべてが「業務」である。さすがにこれは極論ではあるが、例えば、私が「今日は呼び出しがあるかもしれない」と考えて、休日なのに外出を控える状態、これは「仕事」なのかどうなのか?考え出せばきりがない。


少なくとも「専攻医」という「修業期間」は、「業務時間」と「自己研鑽」の時間は区別できないと思っている。という点で、病院側は、「専攻医」の過労死問題について極めて「逃げ腰」であるという印象を受ける。労基署の認定が正しいという印象を受けている。


「医師不足だ」と言って単純に「医師の数を増やす」ということも得策ではない。「医師」が増えれば、当然医療費は上昇するからである。勤務医であれ、開業医であれ、基本的には「診療報酬」の中から給料をもらっているので、「医師」が増えれば、「医療費」が増えるのは必然である。


同じ新聞の中で、「男性の育児休暇」についての記事があった。やはり女性の育児休暇取得率に比較して男性の育児休暇取得率は明らかに低くなっている。もちろん大企業に比べて、中小企業は男性の育休取得率は低い。これも本質は「業務量の過剰」に起因しているのではないか、と思っている。中小企業の多くは、取引先となる大企業が命綱、となっていることが多い。


原材料や光熱費の上昇、取引先からの単価引き下げの強い圧力があれば、削れるところはどうしても人件費となってしまい、「少ない人数」で「目一杯」の仕事をせざるを得ない。「人件費」が払えないので、いわゆる「サービス残業」も必然となる。そのような状況で「権利だから」と「育児休暇」を取れるか、というとそうではないことが容易に想像できる。「労働者の権利」なので、無理から育児休暇を取ることは可能ではあろう。その間に、さらなる過重労働を負荷された同僚たちには、その人の姿はどう映るであろうか?


必ずしも「温かい目」だけではなかろう。「会社組織」とはいえ、人間が構成員なのである。ギリギリいっぱいのところで「抜けられた」という気持ちはどこかでぬぐえないのではないだろうか?「組織」としてもそうであろう。本来あってはならないことだが、「出世と引き換え」ということは現実として存在しているようだ。


専攻医の過重労働、男性の育児休暇取得率の低値、どちらも根っこは同じであろう、と感じているのだが。どうだろうか?

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