第582話 主観でも客観でもない思考法

今回の表題は、8/17 読売新聞 夕刊 関西版の3面に載っていた記事の見出しである。


取り上げられている人は「現象学」を専門とする大阪大学の村上 靖彦教授。氏の上梓した「客観性の落とし穴」という著書を取り上げた記事である。


氏は、講義中に「それって客観的ですか?」と問われることがよくあるそうだ。氏は、2014年から大阪市西成区に社会調査に入り、困難を抱えて生きていた大人や子供、支援者にインタビューを行なってきた。講義で、その人たちの声を取り上げると、「それって一人の意見ですよね」といった反応が返ってくるとのこと。「データの裏付けがない」ということだ。


現代社会を考えていくうえで、確率論など数学的、客観的とされる科学が重要であることは論を待たないが、氏は「今の社会が数字にとらわれすぎ、客観性を過度に信用している風潮に違和感を抱いていた」そうだ。それが執筆の契機となったとのこと。


著書の前半では、「客観性」という言葉が普及してまだ200年足らずの間に、「人の心」まで計測可能なデータとしてとらえられるようになった歴史に言及。知能検査や組織の人事評価に象徴される数値化、能力主義は「人間を社会にとって役に立つかどうか」で序列化する、と強調している。


数字が支配し、顔が見えなくなる社会に対抗する手段として、著書の後半では、「一人一人の生き生きとした経験を繊細に感じ取る」方法を提案している。その人の視点から、目の前に広がる世界がどう見えたかを描き出すことによって取り巻く社会の構造や課題という「真理」が浮かび上がってくる、とのことだ。氏の専門とする「現象学」はこのような手法を取っているとのことである。


私たち医療者が日々行っている医療のすべてではないにせよ、鍵となる治療法などは、二重盲検試験など、被検者の「物事を感じ、能動的に動く、という意味での人間性」を消し去り、「顔の見えない」ものとして扱い、多数の被検者への「(治療的)介入」の結果を数学的に評価する、EBM(Evidence Based Medicine)が基盤となっていることが多い。もちろんすべてがEBMで片づけられるわけではないが、大学医局や、勉強熱心な研修病院でのカンファレンスなどに顔を出すと、「エビデンスはどこにある?」という議論が起きることは日常茶飯事である。


個人の顔が見えない「EBM」を補完、いや、車の両輪としての立場がNarrative Based Medicine(NBM)という考え方である。病を抱えて、私たちの前に治療を求めて現れた「患者さん」の「病気」だけでなく過ごしてきた人生、ものの考え方、周りの環境などをNarrative(物語)として、「細分化」ではなく、「統合」した「人間」として向かい合う、という姿勢である。


例えば、悪性腫瘍の治療、という視点で考えてみる。いわゆる「標準治療」は、まさしくEBMの産物である。現時点で最も副作用が少なく、効果の高い治療、ということになる。


しかし、私のような「悪性腫瘍の治療」ではなく、「悪性腫瘍を抱えた患者さんを支えていく」という医療を提供する医師にとっては、必要なことは「EBM」以上に「NBM」である。


1人として同じ人はいないわけで、患者さんの性格、家族関係、収入、人生観などを共有し、その人にとってより良い生活の質を提供する、という仕事もまた「医療者」の重要な仕事だと考えている。


今回の記事を読んで、まさしく村上氏の訴えていることは、「EBM」と「NBM」のことだと感じた。全く別の世界で、同じようなことが考えられている、ということに深く感じ入った次第である。

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