第578話 やはり石橋は叩いておいた方がよい

前章で書いたとおり、今日は比較的穏やかな外来であったが、やはり私の外来。最後の最後で、「重症」の患者さんが来られた。


70代後半の男性。普段は高血圧、脂質異常症、虚血性心疾患(?)(バイアスピリンを内服されていたので)で、別の医師の外来に定期通院されている方であった。本日の主訴は、「前回の採血結果を聞きに来た」ということと「前日から胃のあたりが重苦しい」ということだった。


診察室に呼び込む前に看護師さんが確認してくれたバイタルサインを確認するが、バイタルサインは安定していた。発熱もない。そして患者さんを診察室に呼び込む。


「今日はどうされましたか?」と問診を始めると、前述の主訴を話し始めた。まずは速やかに終わりそうな採血結果の説明をする。


「前回の採血検査では、特に異常値はなかったです」と説明。患者さんも「あぁ、そうですか」と納得されて終了。


わざわざ主治医ではない私のところに受診された、ということはよほど、「胃のあたりの症状」がつらかったのだろう。お話を伺う。


「昨日の朝くらいから、みぞおちのあたりが重いような痛いような感じが続いています。症状には波はなく、症状は昨日からずっと持続しています。食事はあまり食欲はないのですが、食事を取ったから症状が強くなったりすることはありませんでした。排便は昨日からありません」とのことだった。


う~ん、なんだか嫌~な雰囲気の訴えである。患者さんを診察する。


先に述べたようにバイタルサインは安定。重篤感もなく、苦悶様の表情ではなかった(ふつうの表情で、しんどそうではない印象だった)。身体診察を行なうが、心音、呼吸音に異常を認めず。腹部は平坦、軟。腸音は正常。右下腹部に虫垂炎の跡があるが、ちょうどその位置に、赤ん坊の握りこぶしくらいの、可動性のある、比較的硬い腫瘤を触れた。同部の触診でも特に患者さんは痛みを訴えなかった。


「何だろう?虫垂炎の手術は小さいころに受けた、とおっしゃられていたが、その瘢痕を触れたのかな?」と、少し心に引っかかるものを感じた。


わざわざ暑い中、病院に来るほどには症状が強いわけであるが、単純な消化管のトラブルではないようだ。消化管であったり、尿管であったり、管腔臓器のトラブルは往々にして、「強弱のある」痛みを訴えられることが多い。管腔の蠕動に一致して痛みが出るので、「蠕動痛」と言ったりするが、患者さんの訴えからは、蠕動痛は否定的であった。


後期高齢者に近い年齢の男性で、蠕動痛ではなく、腹部に所見のない心窩部痛、と考えると、「心筋梗塞」は外せない。右下腹部の腫瘤も気になるところであるが、同部位に圧痛がないことから、今回の痛みとは別のものかもしれない、と考えた。


前回血液検査をした人に、「血液検査をしましょう」いうと、結構文句を言われることが多い。「前回したばかりじゃないか!」と。なので、「前回の血液検査は、定期的なお身体のチェックのための検査です。今日の血液検査は、『急に出現した今の症状』の原因を探すための検査です。血液検査の持つ意味が違うので、血液検査をさせてください」とお話しして、しぶしぶ同意してもらうことが比較的多い。


こういうことで嫌な思いをたくさんしていると、「しっかり検査した方がいい」と思っても躊躇してしまいがちになる。私も一瞬日和ってしまい、「う~ん、胃酸を抑える薬で少し様子を見ましょうか」と患者さんに提案した。


患者さんから、「先生、私はいつも逆流性食道炎の治療で、胃酸を強く抑える薬を飲んでいるのです」と答えが返ってきた。定期処方薬を見ると、確かにPPI(プロトンポンプ阻害薬。プロトン≒H+であり、PPIはH+の分泌を抑えるので、胃のpHが上昇し、胃潰瘍などが改善する)を内服されていた。


しばし、う~んと考えた。PPIも飲んでおられ、訴えからは心筋梗塞なども鑑別診断に上がる。おなかは全く張っていないが、便が出ていないとなると、腸閉塞も考えなければならない。右下腹部の腫瘤も変である。


「わかりました。前回採血したところなのに申し訳ないですが、少ししっかりと検査をさせてください。血液検査で、緊急を要する病態が隠れていないかどうか、おなかの輪切りの写真で、おなかに何か異常がないかどうかと、『心筋梗塞』でみぞおちのあたりに痛みが出ることもしばしばあるので、心電図と、この3つの検査をさせてください」とお伝えした。


患者さんは納得され、検査に回ってもらうことになった。一番検査時間がかかるのは、血液検査なので、最初に採血をして、その後、腹部CTと心電図に回ってもらった。


最初に心電図の結果が帰ってきた。心拍数は51/分と遅く、明らかな虚血性変化を示唆する心電図変化はないが、時にP波を伴わない、形の整ったQRS波が見られ、脈も不整だった。


「う~ん、心電図の波形は、典型的な心筋梗塞のものではないが、徐脈傾向だったり、脈不整があったり、P波のない波があったりと、スッキリしない心電図だなぁ」と思った。P波のない、他の波形と同様のQRS波は、おそらく房室結節からの補充調律なのだろうと推測した。房室結節の虚血なら、普通は「房室結節」由来の補充調律が出るよりも、房室伝導がブロックされ、完全房室ブロックを呈するはずであり、つじつまが合わない。洞結節を巻き込む心筋虚血なら、もっと高度の洞不全が起きるはずである。心電図は変だが、「心筋梗塞」と考えても合理的に説明できない。悩みは解決しなかった。


次に結果が帰ってきたのは、腹部CTだった。画像を確認していく。胃、膵臓、肝臓、胆嚢など、心窩部痛を来す臓器には目立った問題はなかった。大血管や、上腸間膜動脈分岐部の不自然な拡張もない。画像を下腹部に向けてスライスを進めていくと、触診で「おかしい」と思った部分が、画像的にも「おかしい」ことが分かった。小腸が大腸に入り込んでいくところなので、確かに部位は「回盲部」なのだが、同部位の腸管壁は明らかに肥厚しており、「糞石」も腸管壁に存在している。同部位周囲の脂肪組織は濃度が上昇しており、同部位に炎症が起きていることがわかる。


虫垂炎でもしばしば起きることだが、発症初期は心窩部痛を感じ、病状の進行とともに痛みの部位が右下腹部に移行していくことがある。それを考えると、この病変が「胃のあたりの重いような、痛いような感じ」の原因となることは十分ありうる。今日は放射線科の非常勤医が、撮影したCT画像の所見をつけに来てくれる日で、患者さんのCTも所見をつけてくださった。「上行結腸口側に憩室炎の所見、膿瘍形成を疑う所見があり、憩室炎の穿孔の可能性がある。外科医の評価が必要」との所見だった。


う~ん、画像上は脂肪組織の濃度上昇があり、この部位に「炎症」が起きているのは確かなのだが、それではなぜ、触診で痛みが出なかったのだろうか??これも悩ましいところである。ただし、画像を見る限るでは、少なくともこの右下腹部の所見は緊急対応が必要だろうと考えた。


とても悩ましい状況であった。心電図は明らかな虚血性変化は認めないが、脈不整は見られるのは不自然である。腹部に強い病変があり、腹部に広範に広がる「迷走神経(副交感神経の一部)」が刺激されれば、徐脈になってもおかしくはない。腹部CTの所見は明らかにおかしい。と考えると、最後の判断は血液検査にゆだねることになる。緊急項目の中に、心筋がダメージを受けたときに上昇する「トロポニンT」という項目を入れていた。発症から24時間近くたっているので、「心筋梗塞」なら「トロポニンT」は上昇し、心筋逸脱酵素、と呼ばれる酵素が上昇する。もしトロポニンが陽性なら、大急ぎで転送すべきは「循環器内科」である。逆に、トロポニンTが陰性、心筋逸脱酵素の上昇が無ければ、転送すべきは「消化器外科」である。ということで、採血結果を首を長くして待った。


よく考えれば、トロポニンTは迅速キットで定性検査を行なっているので、仮に陽性に出れば、その時点で検査室から緊急連絡があるだろう。それがない、ということは、たぶんトロポニンTは陰性、心筋梗塞は否定的、という結果なのだろう、と推測が付く。


それなりに待ったような気がするが、待ち構えていたから長く待たされたように感じているだけで、いつも通りの検査時間だったのかもしれないが、ようやく血液検査の結果が出た。


炎症反応は上昇(これは心筋梗塞でも見られる)、トロポニンは陰性。心筋逸脱酵素の上昇も認めなかった。と考えると、「心筋梗塞」は否定的である。右下腹部の病変が症状の原因と考えて良いだろうと判断した。


待合室で待っていた患者さんを診察室に呼び込み結果説明。右下腹部に不自然な塊を触れたが、CTでは、その部分に強い炎症を起こしており、おそらく胃のあたりの症状はこの病変が原因と考えて良いと思う。緊急で消化器外科医の診察を受けていただく必要があり、場合によっては手術もありうる、とお伝えした。


以前受診したことのある、近隣の総合病院を確認し、地域医療部に報告。同院から転院調整を行ない、受けてくれる病院が見つかるまで、頑張って探してください、とお願いし、紹介状を作成した。


患者さんは奥様と二人暮らしだが、奥様が認知症で、ご本人が介護を担っており、子供がいないので、緊急連絡先がない、ということが転院調整のネックになったようだ。でもこれから、このようなことは珍しくはないものになっていくだろう。そういう点では医療機関側も考え方を変えていかなければならないのかもしれない。


最終的には、以前受診したことのある、近隣の総合病院が転院を引き受けてくださった。


一瞬「浅きに流れ」かけたが、思い直して、しっかり検査をしてよかった。自分の中に油断があったことを反省すべきだなぁ、と反省した次第である。

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