第548話 Eisenmenger症候群

子供のころから愛読している手塚 治虫氏の「ブラック・ジャック」。その中の一話にこんな話があったのを覚えている。


某国(おそらく旧ソ連をイメージ)のエリート空軍パイロットが、国の技術の粋を集めた戦闘機に妻子を乗せて脱走、ブラック・ジャックのもとに来る。「子供の心臓病を治してほしい」と。


ところがブラック・ジャックは「いくらお金を積まれても治せない」と断る。「やっぱり先生でも無理なのか」と落ち込む家族、煩悶するブラック・ジャックにピノコが、どうしてダメなのかを尋ねる。


「『アイゼンメンゲル複合』が無ければ…!」とブラック・ジャックが絞り出すような声で話す。


この子の持っている心奇形は、肺の血管に強い圧力がかかるために、肺の血管がだめになってしまう。この状態を「アイゼンメンゲル複合」と呼び、この状態になると、心臓だけを手術で治しても、かえって体の状態が悪化してしまう。「アイゼンメンゲル複合」があるならば、心臓だけでなく、肺を取り換えなければならないが、肺は移植することができない。なのでどうしてもこの子を助けてあげることはできない。


そしてブラック・ジャックは子供とお母さんを結合させ、血管をつなぎ変え、お母さんの心肺で子供の体循環を維持する、という手術を行なう。子供は一生お母さんに背負われたままになるが、とブラックジャックが語り、パイロットである父は、「ありがとう」とブラックジャックに礼を言い、「祖国の兵士としての義務を果たす」と言って、乗ってきた戦闘機を爆発させ、その戦闘機とともに散っていく、というあらすじである。


表題をドイツ語読みにすると「アイゼンメンゲル」となるが、今の医学教育は英語で行われているので、「アイゼンメンジャー」と呼んでいる。


ラノベの作品である「りゅうおうのおしごと」やマンガの「三月のライオン」は、主人公が天才棋士、という設定で、それぞれ作者が「こんな快進撃はないだろう」というようなストーリー展開をしていたが、藤井 聡太七冠は、これらの作品の主人公以上の快進撃を見せ、「現実が創作世界を超えた」と話題になったが、ブラック・ジャックのこの話についても、「肺は移植できない」という点については技術的にクリアでき、今では肺移植や心肺同時移植などが行われるようになった。これは、「現実が創作世界を超えた」と言ってもいいだろう。


ただし、さすが手塚 治虫氏は「医師」である。この漫画で説明されていた「Eisenmenger症候群」の説明は簡略化されているが、正しい説明である。私が医学部に進学し、循環器分野の授業で「Eisenmenger症候群」の説明がなされたときは、「あぁ、このことか」と得心したことを覚えている。


つい最近も書いたように記憶しているが、人間の心臓は二心房二心室となっており、右心系は肺循環、左心系は体循環を担っている。心臓のすぐ隣にある肺に血液を送るだけでいいので、右心系の血圧は低く(20~30mmHg程度)、全身に血液を送らなければならない左心系の血圧は高い(健康な成人で120mmHgくらい。当然高血圧の人はもっと高い)。心臓を解剖すると、右心室を構成している心筋は、左心室を構成している心筋よりもはるかに薄いことが分かる。


正常であれば血液の流れは、出発点を左心室とすると、左心室→大動脈→全身の各組織→静脈→右心房→右心室→肺→左心房→左心室、とぐるりと一周する。ところが、先天奇形などで、この回路に短絡が生じることがある。電気回路なら短絡は「ショート」と呼ぶが、血管の短絡は「シャント」と呼ぶ。右心系の血液(静脈血)が左心系(動脈血)に流れ込むパターンを「右―左シャント」、左心系の血液が右心系に流れ込むのを「左―右シャント」と呼ぶ。


ブラックジャックの症例は「心室中隔欠損(右心室と左心室の間の壁(中隔)に穴が開きっぱなしとなっている奇形。先天性心奇形で最も多い)」だったと記憶しているが、「心室中隔欠損(VSD)」「動脈管開存症(PDA)」では、体循環の圧力が右心系にかかるため、そして「心房中隔欠損(ASD)」では、左心房→右心房に血液が流入するので、右心系の流量が増えるため、相対的に右心系に圧負荷がかかる。これら3つは「左―右シャント」となる疾患だが、右心系(肺動脈)の圧力が高くなると、その圧力に耐えるために肺の毛細血管の壁が厚くなってくる。


肺の毛細血管の壁は極めて薄いため、酸素をうまく血管内に取り込み、二酸化炭素を排出することができるのだが、毛細血管の壁が厚くなると、酸素分子、二酸化炭素分子がその壁を通り抜けにくくなるため(特に酸素分子)、うまくガス交換ができなくなる。また、分厚くなった壁を持つ毛細血管は、血流が正常の毛細血管に比べて流れにくくなる(血管抵抗が大きくなる)ので、さらに右心系は肺に血流を送るために高い血圧を作るようになる。


「Eisenmenger症候群」は、このようにして、右心系の血管抵抗が強くなり、肺循環の血圧が、体循環の血圧を超えた状態となった状態を指す。


Eisenmenger症候群となっている患者さんに、心臓の手術だけをすると、肺循環の血圧を維持することができず、極めてまずい状態となってしまう。ブラック・ジャックが懸念していたのはそのことである。ブラック・ジャックが言ったとおり、Eisenmenger症候群となっている患者さんでは、根治を目指すなら今でも心肺同時移植が必要である。


実際は、今ではEisenmenger症候群となる前に治療を受けることが多く、実際の患者さんは珍しいのだが、研修医時代、師匠が訪問診療をしていた患者さんで、Eisenmenger症候群となっていた患者さんがおられた。心臓移植や、iPS細胞を使った再生医療で有名な某大学心臓血管外科の、2代前の教授が研修医のころから、その患者さんをfollowしている、と師匠から聞いたことがある。


訪問診療に同行させてもらったり、師匠の代理で訪問診療に伺ったことがあるが、体調のいいときで、パルスオキシメーターの数字はSpO2 75%程度と、静脈血が体循環で回っているような状態だった(COVID-19で、軽症と中等症の分かれ目がSpO2 90%、ということを考えると、どれだけ低い数値かが理解してもらえるであろう)。あまりにも病態が複雑すぎて理解できず、師匠に病態を質問したのだが、「保谷先生、私にもわかりません。私ができることは在宅酸素療法で酸素を投与することで肺の血管抵抗を減らしてあげることくらいです」との答えだった(肺の毛細血管は、肺胞内の酸素分圧が上昇すると拡張し、血管抵抗が低下することが分かっている)。


前置きが長くなってしまったが、ここからが本題。


先日転院されてきた80代の女性。先天性心疾患があり、そこに加齢と、心負荷による心拡大に起因すると思われる弁膜症が重なっている状態である。心不全の急性増悪で急性期病院に入院。利尿剤などを使って保存的に(手術などをせずに)治療され、状態が落ち着いたのでリハビリを、ということで、当院にお見えになられた。前医からの紹介状では酸素も離脱できている、という話だったが、来院時は酸素ボンベを抱え、酸素投与された状態でお見えになられた。


前医からの各種検査を確認する。心エコー検査で、推定右室圧は60mmHgとのこと。明らかな肺高血圧である。Eizenmenger症候群の定義(肺動脈圧>体循環の血圧)は満たしていないものの、身体の中で起こっていることは、まさしくEisenmenger症候群と同じである。また、当院で胸部レントゲンを撮影すると、左肺野はほとんどが心陰影で占められている。


以前にも書いたことがあるが、心機能が悪くなると、必要な血液(1分間に約5L)を拍出するために、心臓が拡大する。計算を楽にするために、1分間で6Lの血液を送り出す、と考えることにする。元気な心臓で、一回の収縮で心室容量の70%を拍出できる状態、心拍数が60回とすると、一回で拍出する血液量は100ml、心室容量は100÷0.7(70%)=約140mlの心室容量があればよい。ところが、心機能が落ちて一回の収縮で、心室容量の20%くらいしか拍出できない、となると、100÷0.2(20%)=500mlの心室容量が必要となる。ということで、悪い心臓ほど、レントゲンでは大きくなっているので、左の肺野の大部分が心陰影で占められているのは、どれだけ心臓が悪いか、ということを如実に表している。


心機能が低下すると、肺にもむくみが生じる(肺水腫)。ひどくなるとゼーゼーと喘鳴がして、時には肺の水分が血液と混じった状態で、カニの泡のようにあふれ出てくることがある(これは命にかかわる状態)。そこまで行かなくても、座った状態なら水分が重力にひかれて、下方に降りてくれるので、肺の上部や中部でガス交換ができるのだが、寝てしまうと肺全体に余分な水分が広がってしまうので、横になれない状態になる。医学的には「起坐呼吸」という状態だが、この患者さん、当院に転院してから、起坐呼吸のため、ベッドに横になることができない状態が続いていた。もちろん、前医で使える薬はほぼすべて使われており、NPPV、CPAPの機械のない当院では、利尿剤を増やすくらいしかできない。


朝回診の時に「昨日も横になれんかったよ」と言われると、大変心痛むのだが、本当に何もできない。利尿剤も際限なく増やすことはできないので、お手上げ、というのが正直なところである。


ブラック・ジャックが煩悶したこと、同じことで今、私も煩悶している。

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