第508話 変な話だなぁ

広末 涼子氏が「不倫」をした、とのことで週刊誌や芸能情報界隈がにぎやかである。先ほどYahooのトップサイトを眺めていたら、「広末 不倫を認める 心からお詫び」「広末 事務所が無期限謹慎発表」と主要ニュースとして挙げていた。


広末氏は明らかに著名人であり、いわゆる「不倫」のお相手となったシェフも有名人ではあるが、その知名度には大きなレベルの差があるのは事実である。とはいえ、そのシェフの経営する「店」に行かないでおこう、だとか、「営業停止だ」なんて言う声は聞こえてこない。なぜ広末氏だけがここまで叩かれなければならないのだろうか?


著明な女優さんで言うと、鈴木 杏樹氏や斎藤 由貴氏も(斎藤氏は何度も)話題に上った人であるが、広末氏や鈴木氏に比べると、斎藤氏はあまりひどく叩かれたような記憶がない(結構「きつい」ことをされていたようだが)。それなりに昔だが、ベッキー氏もひどく叩かれていたと記憶している。


男性側の有名人で、「不倫報道」でひどく叩かれたといえば、お笑いコンビ「アンジャッシュ」の渡部 建氏であろうか?彼については、「女性をもの扱い」するような態度が強い批判につながったのだろう。「恋愛感情」ではなく「性欲」というつながり、という点では批判されるべきところは多かろう。


「ゲスの極み乙女」の川谷 絵音氏はベッキー氏とともに叩かれていたが、二人の関係を見ると、既婚者の川谷氏がベッキー氏を騙していたことになるわけで、どう考えても非は川谷氏にあると思われるのだが、逆風はベッキー氏の方により強く吹いていた記憶がある。


落語界の大御所も不倫報道があったが、何となく鎮火してしまった印象である。


仏教では「不邪淫戒」として、新約聖書には「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」との言葉がある。これらの「禁」があるのはなぜか、と言えば、人間の本質として、そのような「欲望」が誰にでも存在しているからではなかろうか?


私は「恋愛至上主義者」ではないが、人が「結婚」していようが、していまいが、「恋に落ちてしまう」ときは「落ちてしまう」ものだと思っている。「婚姻」という制度が倫理的足かせになるのはそうであるが、「生物」としての「ヒト」は、年齢や置かれた状況とは関係なく、何の理由もなく「恋に落ちてしまう事がある」生き物だと思っている。それを本質的に制御することは困難であるからこそ、釈尊も、キリストも、「戒めの言葉」をもって「その想いの表出」を禁じたのだろうと思っている。


ヨハネの福音書 第8章にある有名なエピソードをここであげておきたい。


<前略>

イエスが話していると、律法学者とファリサイ派の人たちが不義の現場で捕らえられた女性をひとり連れて来ました。


彼らは女性を人々の前にすえました。彼らはイエスに言いました。「先生。この女は不義の現場で捕らえられたのです。モーゼは律法は、この女性を石打ちの刑に処せと言います。あなたは何と言われますか?」


彼らはイエスを罠にかけて、後にイエスに対して使える言葉を言わせようとしていたのです。しかしさまイエスは身をかがめて指で砂に書きました。


彼らが答を求め続けるので、イエスは立ち上がって言いました。「いいでしょう。ですが、あなた方の中で罪を犯したことのない者に最初の石を投げさせなさい。」それからイエスは、もう一度身をかがめて砂に書きました。


告発者たちはこれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり抜け出て行き、とうとう群衆の中にイエスだけが女性とともに残されました。


するとイエスはもう一度立ち上がり、女性に言いました。「あなたの告発者たちはどこですか。あなたを罪に定める者はひとりもいなかったのですか。」

女性は言いました。「主よ、誰もいません。」


イエスは言いました。「私もあなたを罪に定めません。行きなさい。もう罪を犯してはなりません。」


<引用ここまで>


「あなた方の中で罪を犯したことのない者に最初の石を投げさせなさい」という言葉はとても重い。人はすべからく生きていくうえで、何らかの罪を犯さざるを得ない生き物だからである。自らの魂の中をつまびらかに見て行けば、自らの中に「目をそむけたくなる」ような、黒い部分があることは、誰もがわかることであろう。「罪を持つ人間」が「罪を持つ人間」を非難する、という事に対して、ある程度の内省は必要ではないか、と思ったりもする。


広末氏の問題については、夫のキャンドル・ジュン氏の発言も少し気になった。


キャンドルイベントのあいさつで、広末氏の連れ子との仲の良さをアピールするのは良い。そのあと、「長男(広末氏の連れ子、19歳)が弟妹達の面倒を見ている」との発言があった。この言葉だけを何気なく聞くと、「広末氏は子供たちの面倒を放り出して、ひどいことだ」という印象を与えかねない。


しかしこの発言、きっちりと場合分けをしなければならない発言である。広末氏も、キャンドル・ジュン氏も多忙な方であり、仕事上、家を空けることが多いだろう。二人とも仕事で家を空けなければならない、という事があれば、「長男君が幼い弟妹の面倒を見る」という事は「家族内での助け合い」という点で必要なことだろう。それが過度に長男君の日常生活の負担となることであれば、ベビーシッターの介入は必要かもしれない。


広末氏が在宅で、キャンドル・ジュン氏が不在のとき、という条件なら、弟妹達の面倒は主に広末氏が見て、長男君は「お手伝い」程度でよいと思う。広末氏が不在で、キャンドル・ジュン氏が在宅なら、小さい子供たちの面倒は主に「実父」であるキャンドル・ジュン氏が見て、長男君が「お手伝い」となるべきである。両親ともに在宅なら、弟妹は夫婦がお互いに面倒を見なければならないだろう。


キャンドル・ジュン氏はイベントで東北に来ており、「父親は不在」というのは確定している。広末氏が在宅なのか、仕事で不在なのかは明確にされていない。仮に「広末氏が予定の仕事で不在」という状況で、氏が前述の発言をしていれば、印象操作となりえないだろうか? という点で、注意しなければならない発言である、という印象を受けた。


私の好きな小説の一つ、太宰治の「御伽草子」。この中で泥舟が沈没し、溺れているタヌキを櫂で殴り続けているウサギに対して断末魔のタヌキが叫んだ一言「惚れたが悪いか!」。


人を好きになる瞬間なんて、人間が勝手に決められるわけではない。その時にどのような選択肢を取るかは、それぞれの人の判断であると思っている。「家庭を捨てて新しい恋に生きるのか」「ばれないように恋を楽しむのか」「家族を優先して恋心を捨てるのか」。倫理的な問題はあれど、どの道を選ぶのかは本人次第であり、その決断を批判できるのは、そこに関係している人たちだけで、外野がとやかく言う事ではないだろう。


そういう意味でも、このような時に巻き起こるバッシングの嵐、それを見ると私は不愉快になる。「当事者たちの問題やろ。放っといてやろうよ」と思うのである。

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