第458話 平等・公平・公正(まとまりのない長文です)

以前から、心の中で思案中のことであるが、ここ最近、妻が「ジェンダー平等」の本を読んで、盛んにそのことを唱えている。言わんことはわかるが、本当の意味で「平等」「公平」「公正」って何だろう、とモヤモヤしているのでここに書くこととする。私自身の頭の回転は速くはなく、妻がマシンガントークでしゃべってくるといい負けてしまうこと、正当な議論のはずが、どういうわけか感情が入ってきてしまい、家の中がギクシャクするので、家の中で議論をするのは、いったん避けている。私自身の中でも整理できていないので、今回の文章は散漫でオチのない物、となってしまうのはご了承いただきたい。


論文ではなく、雑記なので、明確な言葉の定義は行わないが、「公平」と「公正」の違いを明確に表した一コマ漫画があったので、それをイメージして話したい。


背の高さの異なる3人の人が、高い塀の向こうで行なわれている野球の試合をのぞき見したい、と考えている。このときに、3人にそれぞれ一箱ずつ台となる箱を渡すのは「公平」、しかし、一箱だけでは、一番背の高い人は塀の向こうを覗けるようになったが、中くらい、小さい人は塀を越えて覗き見することができない。それで、背の高い人は一箱、中くらいの人は二箱、小さい人には三箱渡したところ、みんな塀を越えて野球を見ることができるようになった。これを「公正」と呼びたい。


内閣府男女共同参画局から公開されている、SDGsとジェンダー平等の資料を今眺めているところであるが、文面は非常によく考えられていると感じている。


<以下引用>from 内閣府男女共同参画局作成powerpoint


「ジェンダー平等」とは、ひとりひとりの人間が、性別にかかわらず、平等に責任や権利や機会を分かちあい、あらゆる物事を一緒に決めることができることを意味しています。男性と女性は、身体のつくりは違いますが、平等です。ところが、今の社会では、男性に向いている役割や責任、女性に向いている役割や責任など、個人の希望や能力ではなく「性別」によって生き方や働き方の選択肢や機会が決められてしまうことがあります。


<引用終了>


この部分は「ジェンダー平等って何だろう」という表題の文章の冒頭の部分である。この中で、一番大切な文章は「男性と女性は、身体のつくりは違いますが、平等です」の一文だと感じている。生物学的性(セックス)としての男女は明らかに異質のものである、という事をまず認識し、この特性の異なる二つの生き物が「平等である」と認識することが最初の出発点だと私は思っている。


子供が妊娠すると、「母親教室」や「父親教室」などに参加し、妊娠中の女性のしんどさや新生児、乳児の特性などを勉強することが多い(私も参加したことがある)のだが、以前、ネット記事で「『父親教室』で、妊娠中の母体のしんどさをわかってもらおうと、腹部に約7kg(胎児、羊水、血流が増加し大きくなった子宮を合わせた重量)の重りを父親候補の男性につけてもらった(妊婦体験用のものが市販されている)が、男性たちはそれをつけて腹筋をしたり、スクワットをしたりで、『こんなの余裕じゃん』と誤って認識されてしまった」というものを読んだ記憶がある。


それは男女の筋力差を考えれば当たり前のことで、例えば、160cm、50kg程度の体格(ちょっと痩せ)の女性の背筋力の平均を算定し、それを一つの指標として、例えば、体格、あるいは背筋力を父親教室でそれぞれ勘案し、重りの質量を比例させなければ、しんどさはわからないだろう、と思う。


話を元に戻す。先ほどの文章の続きを引用させてもらう。


<以下引用>

今の社会では、男性に向いている役割や責任、女性に向いている役割や責任など、個人の希望や能力ではなく「性別」によって生き方や働き方の選択肢や機会が決められてしまうことがあります。

<引用終了>


上記の文章もその通りなのだが、これは「女性」だけを「性差」で縛っているだけではなく、「男性」もまた、「性差」に縛られている、という事を考えなければならない。


「筋力」を要求される厳しくて賃金の安い仕事、ここに動員されるのは女性ではなく男性である。今から30年ほど前、原子力発電所についてのルポを読んだことがある。時代はまだバブルのころで、私は当時予備校生、大阪市西成区のいわゆる「あいりん地区」は予備校から徒歩圏内にあり、悶々とした思いを抱えてその辺りを何度も散策したことがあるので、そのルポに書かれている地域の雰囲気と、私の肌感覚とは一致しており、「捏造」や「誇張」ではない、と思いながら読んだ。


原子力発電所の維持には、どうしても高い放射線濃度の場所で働かなければならない人が出てくる。本来は放射線に対して知識を持った人が従事すべき仕事であるが、そのような仕事に「あいりん地区」の日雇い労働者が動員されている、というものであった。もちろん、そこにはひどい「中抜き」の構造があって、記憶があいまい(なんせ30年ほど前に読んだ本なので)なのはご了承いただきたいが、1週間ほどの泊まり込みで業務に従事し、元受けである電力会社は作業員一人当たり、1日1万~2万程度の日給を支払っていたが、人を集めた会社(時には反社会勢力の関与もある)が「宿泊費」「作業衣洗濯代」などなどの名目で、そのお金をはねて、結局労働者の手には、7日間の報酬が1万円行くか行かないか、くらいしか渡らない、と書いてあったように記憶している。ただ、日雇い労働者側も、その仕事に就けば、1週間の寝る場所、食事が確保できるので、「中抜き」は認識しているものの声をあげることはなかった、とのことだったと記憶している。


そんなわけで、「個人の希望や能力」とは無関係に職を決定される現状が存在し、「職業選択の自由」はある意味「幻想」あるいは「特権階級のもの」であること。またそのような場合には、男女の「身体的特性」に応じた振り分けがなされている、という事である。本来はジェンダー平等の議論の前に、そのような形で労働に従事せざるを得ない環境を変えなければならないはずであるが、そこに注目されることがない、という事も大きな問題であると考えている。


また、これは、「ジェンダー(社会的性的役割)」が「セックス(身体的性的特性)」を基盤としている一つの例でもあると思われる。「セックス」という点で異質のものであれば、「セックス」が大きく影響を与える職場での「ジェンダー平等」は極めて実現困難なものとなる。そのような職種で「ジェンダー平等」を求めることが「適切なのかどうか」という事も考えなければならないと思われる。


またスライドから引用させてほしい。


<以下引用>

世界中で、法律や制度を変えたり、教育やメディアを通じた意識啓発を行うことで、社会的・文化的に作られた性別(ジェンダー)を問い直し、ひとりひとりの人権を尊重しつつ責任を分かち合い、性別に関わりなく、その個性と能力を十分に発揮することができる社会を創るための取組が行われています。

同時に、「女の子だから」「女性だから」という理由で直面する障壁を取り除き、自分の人生を自分で決めながら生きるための力を身につける取組 (エンパワーメント)も行われています。 「ジェンダーの平等と女性・女の子のエンパワ-メント」は、SDGsの重要なテーマで、また、日本では「男女共同参画社会基本法」で21世紀の最重要課題と位置付けています。

<引用ここまで>


現実問題として、日本では「ジェンダー不平等」の壁にぶつかるのは圧倒的に女性の方が多いのが事実である。と同時に「男性だから」という理由で「男性のあるべきジェンダーの姿」にぶつかることもある。卑近な例であるが、男女がマッチングアプリなどで初めて食事をした場合に、支払いはどうするか、という問いに対して「男性が出すべき」という回答をした人が多かった、という事は明らかに男性に対する「ジェンダーの押し付け」ではなかろうか?


という事で、「男性だから」「女性だから」という縛りを外し、「個の人間」としての「自己決定権」を確立しよう、という事が「ジェンダー平等」のゴールであろうと考える。


このスライドでは、日本のジェンダーギャップ指数を取り上げているが、「健康」「教育」では平等が実現されているのに対して、「経済参画」は指数0.6(1.0が完全平等)、そして圧倒的に低いのが「政治参画」(0.061点)である。


以前にも書いたことがあるが、政治の世界に女性の声を入れるのは大切なことだと思っている。国や地方自治体の施策だけではないが、女性を対象とした施策については、審議が進まなかったり、的外れな施策になっていることが少なくないような印象を受けるのは穿ちすぎだろうか?


政治家の仕事ではないが、例えば薬剤の認可など官僚の仕事でも、「低用量ピル」や「経口の堕胎薬」、薬が開発され、他国で一般的に使用されているのに、国内で認可されるまでに数年もかかっている一方で、「バイアグラ」開発から6か月で認証、である。「バイアグラ」が安全な薬、というわけでは決してない。狭心症の方がよく使われる「硝酸薬」、これとの併用で命にかかわる低血圧が起きる危険性もある。いったいこの差は何なのか?


という点でも、社会全体として、女性の声を拾い上げた施策などを行なっていくためには、女性の社会参画は欠かせないものだと思っている。政治家については、クォーター制など、候補者、あるいは比例代表での女性当選者の比率を上げることは重要であろうと思われる。


スライドでは、大事な指摘だと考えているが、以下の文言があった。


<以下引用>

・政治・経済で女性が活躍できない理由の一つは、家事や子育てといった家族の世話をほとんど女性が行っているからです。

<引用ここまで>


この問題については、「男性の働き方(あるいは「働かせ方?」)」について、根本的に変えていく必要がある。もちろん、男性が「家事」「子育て」に参加することは当然のことで、日常的な家事は男性もできるようになる必要があると思うし、育児についても、「お手伝い」という感覚ではなく「当事者」として男性も行なっていく必要があると思っている。


その一方で、保育園などの保育サービスを低年齢層から使っていくこともやはり重要だと考えている。最近よく耳にする「ワンオペ育児」は絶対に避けなければならないことだと思っている。


私が子供のころは、「男は外で仕事、女は専業主婦」というのが一般的であった。また、私の世代は第二次ベビーブームであり、それほど地域のネットワークも崩れていなかったことから、今でいう「ママ友」のように近所のお母さん方が集まって、おしゃべりしたりと「ワンオペ」となることは少なかったと考えている。しかし今は時代が違う。何かのコミュニティーに所属しなければ、その人が孤立してしまう。お父さんが家を顧みる余裕なく仕事をさせられていれば、お母さんは「ワンオペ育児」になってしまう。


子供を育てるのは大変である。妻曰く「24時間365日、休みなく子育て」と言っていたが、新生児~乳幼児期はまさしく「昼夜休みなく」である。また、小さい子供ほどよく泣くのだが、「泣く」という行為が「警告信号」であるので、子供の泣き声に一人で対処しなければならないお母さんは、常に「警告信号」を聞き続けるわけである。どう考えても気の休まる暇がない。お母さんのメンタルが壊れてしまうのも無理のないことである。


私たち夫婦のことを書きたいと思う。初期研修医2年目(2年生)に長男を、後期研修医2年目(4年生)で次男を授かった。医者、特に研修医は仕事=トレーニングであり、労働基準法などどこ吹く風状態であった。長男の時は、3日に1回当直が回ってきて、当直後も通常通り勤務。仕事を終えるのは早くて午後8時過ぎ、朝は7時30分集合であった。なので、ほとんどの時間を妻と長男が自宅で過ごす「ワンオペ育児」となった。妻はさすがに精神的安定性を失いかねない状態となったので、育児サークルに入会したり、一時保育を利用したりなど、自分一人だけで抱え込まないように彼女は努力した。


私自身も新生児期の長男を沐浴させたりなど、できることは可能な限りしていたつもりであったが、長男が3~4か月の時に、へき地離島研修という事で単身赴任をし、戻ってきてからしばらくは長男がなつかず、2週間ほどして、なついたと思っても、一緒にお風呂に入ろうとすると大泣きし(1歳8か月くらいまでは大泣きしていた)、手が付けられなかった。そんなわけで、妻が長男と入浴し、もう出てくるな、というタイミングで、脱衣所で待機、妻が「出るよ」と言って長男君が出てくるとバスタオルできれいに拭いて、おむつをつけて、服を着せて、お風呂上がりのお茶を飲ませていた。このことについても妻は「あなたは、大泣きするからと言って、お風呂を入れるのを私にさせていたけど、大泣きしようと何をしようと、私の代わりをしてくれる人はいなかったんだから」と今でもチクチクと言ってくる。それだけ彼女には、私が非協力的に見えていたのだろう。


次男が生まれるときには、私は1か月の産休を取らせてもらった。師匠(兼研修委員長)に「育児休暇を1か月取らせてほしい」と申し出ると、師匠は「それは絶対取れ!こちらは何とかなる。このことは一生言われるぞ!」と言って、仕事の調整をしてくださった。ただどうしても代わる人のいなかった週1回の午前診と、週1回の訪問診療については出てほしい、という事となり、それを除いてすべての義務を外してくださった。このことについては師匠の言ってくれた通り、妻から「あの時に産休を取ってくれなかったら、私あなたと離婚していた」と後々語ってくれた。危ないところである。師匠に感謝である。


二人を抱えても、私が職場復帰すると、ワンオペ育児となってしまうので妻のストレスは相当なものであった。なので、一時保育を使ったりして、妻が就職活動を行ない、パートで働くことで、二人の保育園入所を決めた。4年目でまだまだ給料が少ないとはいえ、保育料の基準で行くと、最高ランクの保育料となり、二人で10万円以上かかることになった。妻のパート代は月に5万くらいと、明らかな持ち出しではあるが、これで家族が穏やかに過ごせるならば支払う価値のあるお金である。私も仕事の調整がつくときには二人のお迎えに行ったりしていたことを覚えている。同じ系列の保育園なのだが、0~1歳の子供と、2歳以上の子供で学舎が異なっていたので、2か所を回って、お布団と保育園の荷物を二人分抱えながらお迎えに行ったことを覚えており、保育士さんからの申し送りをうろ覚えで妻に怒られたりなど、大変だったことを覚えている。


診療所時代は、週休半日、当直週に2回がデフォルトだった(もちろん当直明けも通常勤務)ので、子供たちと顔を合わすこともままならなかったが、妻の(強引な)配慮で、懇談に出席したりと、子供とのかかわりを持つように妻は努力してくれた。そのおかげで、今のところ、息子二人との関係も良好である。


私自身は家事は一通りこなせるので、妻が体調不良などで動けない時は、私が家事をすることが多い。現在は、当直も夜診もない生活なので、夕方には帰宅しており、なんだかんだと私が家事をしてしまう事も多い。子供たちにも家事をしてもらい、一応二人とも、それなりに家事はできるようになっているのだが、お尻が重いのは難点か、と思ったりしている。


少し脱線してしまったが、社会の通念として、いまだに「男は家事、女は家庭」という意識が根強く残っており(もうすぐその世代も引退の時期だが、その世代に育てられ、そのような考えをもって成人した私たちの同世代がいることもあり)、仕事の負担は男性に集まりがちになる。しかも、「ブラック職場」と呼ばれる職場が多く、家庭を顧みる余裕もなくひたすらに働かされる男性、という状況が現実にあり、そうなれば、子供に縛られて女性の社会進出が難しくなるのもむべなるかな、という事であると同時に、「男女平等」という事から、女性にもその「ブラックな働き方」を社会的地位獲得のために要求してしまっている、という社会になっているのではないか、とも思っている。


産休や育休などの制度、本来は男性にも女性にも付与されるべきものではあるが、会社の運営上、どうしても男性には与えられない、あるいは産休、育休を取った社員を、従前のような馬車馬のように働かせることはできない、という事が起こってしまう。


という事で、「労働市場」あるいは、労働の現場の問題が、「ジェンダー平等」に大きく影響を与えているという事もあるわけである。という事で、「日本でジェンダー平等が進んでいない」という事は「男性すべてが抵抗勢力」というわけではなく、「男性を馬車馬のように、過労死寸前まで働かせなければ、会社が維持できない」というおかしな日本社会の反映で、実は「男性」も「女性」もどちらもが「被害者」となっている、という事を認識する必要はあるだろうと思う。


仕事の隙間時間にこれを書いているので、最後の方は何となくとりとめのない話となってしまったが、そんなことをモヤモヤっと考えながら過ごしている次第である。

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