第441話 そのシステム、おかしくないか?

R5.5/6の読売新聞朝刊。社会面の連載記事「疲弊する教員」(中)を読んだ。


見出しはどうしても衝撃的になる。「担任求め 400人に電話」「なり手不足 『待機組』奪い合い」との文字が紙面に踊る。


ここ最近に始まったことではないはずなのだが、教員一人一人に対する仕事量が膨大になり、一部の「モンスター・ペアレント」の問題、超過勤務に対して、労働基準法で規定されているはずの手当てがつかない、などの問題で、「学校教員」という仕事が敬遠され、また、教員採用試験を受ける年齢層の人口減少もあり、いわゆる「教員」のなり手が足りずに、現場が大変困っている、ということにフォーカスを当てた記事であった。


記事によれば、教育委員会が各学校に設けている教員の定員を満たしていない「教員不足」の公立小中学校は、文部科学省の調査で、小学校の4.2%、中学校の6%にあたる、とのことだ。


見出しにあった『待機組』とは、教員採用試験を受験し、不合格となった方々を指すとのことだが、教員採用試験の受験者数も減少傾向にあり、文部科学省の公表したデータでは公立小学校教員の採用試験の倍率は2.5倍、中学校の倍率は4.7倍と2000年にそれぞれ、12.5倍、17.9倍だったことを考えると激減しているそうである。


記事ではその理由の一つとして、「1970年代の第二次ベビーブーム世代が小学生となった70年代後半~80年代にかけ、大量に採用した教員たちが一斉に退職の時期を迎え、新規の採用数が増加したこと」を挙げている。大量に採用した教員たちが、約40年ほどか、教員として勤務をして、2010年代後半から今に掛けて大量に退職しているわけである。


私たちが子供のころに「熱中時代」や「3年B組 金八先生」などの教師ドラマが流行し、私たちの世代では、「教師」というのはそれほど悪印象でも、不人気でもなかった。私の小学校時代からの友人T君も、小学校時代の先生に強く影響を受けたのだろう、教師への道を目指した。(ちなみに、なぜ「小学校時代の先生に強く影響を受けた」と私が感じたかというと、T君が小学3,4年生の担任だった、熱血先生であるA先生を彼の結婚式に招待していたからである。私はA先生のクラスになったことがなかったので、A先生は私のことをご存じではなかったが、A先生の「熱血ぶり」は学年全体が知っていたので、当然私はA先生のことはよく覚えており、彼の結婚式で、隣に座られたA先生とそのころの思い出話をしたことをよく覚えている)


だが、我々が就職をする1990年代半ば、一般企業に進もうとすれば、バブル崩壊で就職氷河期、先に述べた1970年代後半~1980年代に大量に採用された教員がいたため、教員採用試験は極めて狭き門だった。T君の話では、彼が試験を受けた府県で、理数系の教員の採用枠が府、あるいは県全体で3名、などという話だった。2000年代よりもさらに競争は厳しかったのである。


このような教員の問題を取り上げた記事でもあまり問題視していないように感じるのだが、私がとても違和感を感じていることがある。それは、「教員採用試験」に不合格になった『待機組』から、非正規雇用、あるいは期限付き雇用の形で教員を調達しなければならない、というシステムそのものが「おかしい」のではないか、ということだ。


教員採用試験に合格した者は「教諭」、不合格の期限付き雇用の教員は「講師」と制度上身分が異なるのである。にもかかわらず、要求される業務はほとんど変わらない。ここが「きわめて変だ」と思うところである。


T君は最初の教員採用試験では涙を飲んだ。大学は卒業したものの、どうしたものか、と困っていた3/30に、教育委員会から自宅に「T先生はご在宅でしょうか」と電話がかかって来たそうである。たまたまT君が在宅だったため、自分自身で電話対応することができ、「講師」として、4/1から高校に赴任したとのことだった。これが、仮にT君がその時所用で家を空けていれば、その「講師」の枠はT君に来ることはなく、別の人に流れていくこととなっていた。


ということで、彼曰く、教員採用試験を受けたものは、3月末ギリギリまで、いつ声がかかるか分からない、不安定な状態になる、とのことだった。


T君の赴任先は少し荒れた高校で、各クラスを担任1名+副担任2名の合計3名で担当することが通例となっていて、もちろん担任はそのクラス専任だが、副担任はいくつかのクラスを兼任することとなっていたそうだ。T君はいきなり複数のクラスの副担任となり、担当する授業と、副担任の仕事でテンテコ舞いになったそうだ。


一度、「教員の人とお近づきになりたい」という妻(当時彼女)の友人と、T君との仲を取り持とうと、それぞれの友人に声をかけ、飲み会を開いたことがあった。当時はまだ携帯電話も普及していない時代。飲み会が始まるが、T君だけが来ない。その日の主役なのにどうしたのだろう、と思いながら、モニョモニョしながら時間が来て閉会。後日、T君に話を聞くと、担当していたクラスの生徒が大きなトラブルを起こして、その始末に複数の教員がかかりきりになってしまった、とのことだった。もちろん副担任のT君もその日は深夜まで警察やらなんやら、いろいろなところを走り回っていた、とのことだった。


ちなみに、「教諭」と「講師」では明らかに給与面での待遇は異なる。もちろん「講師」は期限付きなので、次年度の職が保証されているわけでもなく、「講師」として勤務していることが教員採用試験のうえで「有利に働く」ということもない。にもかかわらず、世間からは「教諭」「講師」ともに「学校の先生」であることには変わりなく、そのような内情が反映されるわけでもない。何か問題が起きれば、「教諭」であっても「講師」であっても同じように叩かれる。


という点で、「システム」として、「正規雇用」の人数を制限し、その人手不足を「採用試験に不合格だった」人で補うということが「おかしい」と思うのだがどうだろうか?


記事では識者の意見として、早稲田大学で教育社会学を専門とされている教授のコメントが載っていたが、その中で、「採用倍率が3倍を切ると教育の質が低下すると言われ、深刻な状態だ」との記載があった。


しかし、現行のシステムなら、仮に2022年度の中学校教員採用試験を取り上げると、倍率は4.7倍と、一見採用倍率は3倍を超えているかのように見えるが、その後、不合格者を大量に「講師」として現場に入ってもらっているならば、本質的には「採用倍率は3倍を切っている」わけである。「教育の質」を言うならすでに「アウト」であり、「採用試験不合格者」を「教壇」に立たせるわけなので、本来筋の通らないシステムだと思う。


結局のところ、学校の教員をすべて「教諭」という形にしてしまうと、お金が足りなくなる、ということで、「講師」という名目で安上がりに済ませている、ということが透けて見える。


資源に乏しい日本が、世界に伍していこうとするならば、何で戦うのだ?結局「人材」「人財」で戦うほかないだろう。そのためには教育に十分なお金を使わなければならないだろう。これはれっきとした「投資」の戦略だと思っているのだが。


「人を大切にすること」の重要性を伝える言葉は、古くからいくつもある。長岡藩の「米百俵」のように、長期的視点に立って財の使うべきところを示しているものもあるのだ。バブル時代、そしてその崩壊のころの経営者たちは、それまで何を学んできたのだろうか?その時に蒔いた「ミスジャッジ」の種が、今になって目に見える「問題」として花開いた、ということではないだろうか?


閑話休題。T君は私の記憶が確かならば、8年間、「講師」として働きながら、教員採用試験を受け、無事に合格した。今も厳しい毎日と直面しながら教壇に立っている。


時代のせい、と言えばそれまでなのかもしれないが、T君の8年の苦労は何だったのだろうか?彼が試験を受けていたころは、何十倍もの競争率だった採用試験、今は倍率だけでいえば、はるかに易化している。1990年代半ばからの数年間、「20年、30年後には人が足りなくなる」と考え、採用人数をもう少し増やし、そこにお金をかけていれば、今の教員不足も様相が違ったであろう。高度な技術を持つ第一次ベビーブーマー、本来はそれを受け継ぐべき第二次ベビーブーマーが企業に採用されなかったため、本来は時間をかけなければ引き継げない技術を、世代を飛ばして、促成栽培的に若い世代に技術の移転を行なわなければならなくなったではないか。


いけない、いけない。また変な導火線に火がついてしまった。


まぁ、とにかくそんなことをモヤモヤと思った次第である。

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