第422話 事は「LGBTQ」だけの問題ではない。

いつものごとく、朝はNHK総合ラジオを聞きながら出勤した。いつも聞いている「マイBiz!」のコーナー、今日のテーマは「医療とLGBTQ」だった。


LGBTQの人が医療現場で「いやな思いをした」というのは、とあるアンケートでは約半数に当たる、とのことであった。これは由々しき問題であるともいえるが、その内容は「名前を呼ばれるのが嫌だ」「問診票の性別欄が男女しかないが、「その他」の欄を造ってほしい」「繰り返し名前を呼ばないでほしい」「番号で呼ぶようにしてほしい」というものが多かったそうだ。


今の職場で、私の外来に定期通院されているLGBTQの方は明確になっていないが、前職場の診療所では、15年近く前から、希望者は「希望の名前」で呼ぶこととしていた。もちろん、LGBTの人への配慮である。その他のことについては、それぞれ悩ましい問題を抱えている。


例えば、男女のほかに、「その他」の欄を作ってほしい、という意見。医療を行う上で、生物学上の「男女」ということを確認するには意味がある。というのは、疾患によって、「男性が罹患しやすいもの」「女性が罹患しやすいもの」があるからである。


例えば痛風。生活習慣の影響が出やすいとはいえ、圧倒的に男性の罹患率が高い。同じ生活習慣病として「糖尿病」を見てみると、当院の糖尿病外来にお見えになる方(を待合室で見ている限り)は、「痛風」ほどの男女差を感じない。メカニズムは不明だが、明らかに「男性」の方が「痛風」を起こしやすい素因を有していると推測するのが妥当である。逆にSLEや関節リウマチなどは明らかに女性の罹患率が高い(医学生時代の知識なので少し不安だが)、男女比は1:4~1:9くらいの違いがある。


痛風に限らず、急性の単関節炎では関節液穿刺培養を行なうのと同時に偏光顕微鏡での結晶の有無を確認するのが原則ではあるが(急性の単関節炎では「絶対に」細菌性(化膿性)関節炎を見逃したくない!)、内科医にとって、特に足趾の関節など小関節の穿刺は難しい。もちろん関節液の評価も設備と技師さんがいなければままならない。そんなわけで多くは「臨床診断」となるが、男性であれば、典型的な症状なら「痛風」と診断して外すことはないが、女性が同症状で来られると、本当に「痛風」と言っていいか自信が持てない。ちなみに、痛風発作中は尿酸値の値が下がる(メカニズムは不明)ので、発作時の血液検査で「痛風」かどうかは診断できない。関節液でのみ確定診断ができるわけである。


閑話休題。そんなわけで、生物学的に男性か、女性か、というのは疾患を考え、医療を行なっていくうえで重要なものである。ただ、生物学的「性別」と言っても、「男性」と「女性」に容易に分けられるわけではないのも難しいところではある。


「名前を繰り返し呼ばれるのは嫌だ」という意見、おそらく、大きな病院で、検査に回ると、各検査のところで名前を確認されるのを指しているのだろう。これは「患者さんの取り違え」を防ぐために行われていることなので、不快だとは思うが、「取り違え防止」のためにはご協力をいただきたいところである。


実際に外来で患者さんの呼び込みをしていると、時々呼び込みをした患者さんとは別の患者さんが入ってくることを経験する。かかりつけの患者さんで、顔を覚えていれば、「違いますよ」と言えるが、大病院で、しかも検査ブースなどであれば、分からないことが多い。名前の似ている人もいるわけである。例えば、「堀本(ほりもと)さん」と「森本(もりもと)さん」など、周囲がガヤガヤしていれば聞き間違えてもしょうがない。ということで、各ブースごとに名前の確認、ということについてはご了承いただきたいところである。


大きな病院であれば、「番号制」にして、呼び込みも名前ではなく番号で、各検査ブースでも番号で、精算も番号で、というところが多くなっている。しかしながら数年前だったか、岩手県の県会議員さんが、総合病院で精算時に番号で呼ばれたことに対して、「俺は囚人か!」と怒りに任せて怒鳴り散らし、結局議員辞職、となった事件も起こったことがあり、すべての人が「番号呼び出し制」を快く受け入れているわけでもない。


ということで、放送で挙げられた理由の多くは、如何ともしがたいものであった。おそらく、LGBTQの人でなくても、不快に感じることだろう、とも思われる。


さて、LGBTQのカップルについて、医療機関で問題になるのは、「同意書」の問題と、「人生を共に過ごすパートナー」であるにもかかわらず、例えばICUなどに見舞いのために入れない、などということである。これについては改善すべきものだと思っている。


私のように、いわば「場末」、いや「地域に密着した」医療機関であれば、やはり様々な人間関係が垣間見れる。ご本人の病状を聞いたり、今後の治療方針をご本人の代理として決定する人を「キーパーソン」と呼んでいるが、おそらく大学病院や、都心の大病院ではめったにないことなのだろうが、「キーパーソン」が「内縁の妻」とか、「離婚した元夫」なんてことは珍しいことではない。いずれも現在法的な婚姻関係にない人たちであるが、どうしてこの人たちが「侵襲性の高い手技」の同意書にサインすることができて、LGBTQのパートナーがサインできないのか、というのは確かにおかしなことである。


ただその一方で、このような同意書は、医療提供側と、患者さんサイドの間で生じるトラブルを可能な限り避けるためのものでもある。「トラブルが起きても訴訟は起こしません(あるいは「文句は言いません」)」というタイプの同意書は「訴訟は起こさない」ということに対しての患者さんの権利を侵すものではない、という判決が出ているので、もう今の時代、そのような同意書は存在していないだろうと思うのだが、医療提供側としては、患者さんの親族側で、ご本人に対して身近な人で、社会通念上も「納得」を得られやすい人、親族の意見をまとめることができる人に「キーパーソン」となってほしいのは正直なところであろう。


以前に同性婚のところで、法学者の方が書いたものを引用したが、「同性婚」を法的に正式な「婚姻」として認めると、「法的な『婚姻』の定義」から変えなければならなくなるので、大変大きな仕事になる、とのことだった。しかしながら、公的な機関が「この二人は人生を共にするパートナーである」と証明する、ということは、先ほどの「キーパーソン」の敷居を下げたり、面会を拒否される、などということを無くす上で重要なことだと考えている。


今日の論者は、「検査用の衣服を男性用、女性用と固定せずに、複数の種類から選択できるようにする」などということがアメリカでは行われている、と紹介し、日本でも「医学教育の中に『LGBTQ』の教育を増やす、などと論じていた。


ただ、よく考えてほしいのは、「同じ人はいなくて、みんな一人一人がオンリーワン」だということである。「生物学的性は男性で性自認は女性」という人、「生物学的性は女性で性自認は男性」という人だけでなく、「そこの角を曲がったところの古い家に住んでいる、「自分の言うことは絶対」を自認している人」や「数十年精神科に通院中の「天皇」を自認している人」も同様に、その人の「人間としての尊厳」を守りつつ、医療を提供するのが我々の仕事である。


そう考えれば、「LGBTQ」だから特別、というわけではなく、どの人にも同様に相手の尊厳を守りながら診療を行うことが必要であり、もちろんそれは医療者として当たり前の態度だと思っている。


という点で、ことさらに「LGBTQ」を強調した今日の「マイBiz!」、思い出すほどに、何とも言えない違和感を感じてしまう。


“Black Lives Matter”が世界的に広がった一方で、”Yellow Lives Matter”とはならなかったことに感じたのと同じような違和感を。

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