第394話 「実印」の扱い

私の父の教えの一つに、「実印は決して他人に預けてはいけない。たとえ親であっても、自分の実印を渡すな」というものがあった。父や祖父が、「実印」に絡む問題で非常に困ったことになった、ということは聞いたことがなかったが、父は、特に「実印」がそれだけ危険なものである、と伝えたかったのだろう、と思っている。


「実印」については苦い思い出もある。悲しいことに私の父方の祖父母よりも、父の方が先に亡くなってしまった。祖父母は、何も語らなかったし、祖母は特に、「優しいが理知的」な人だったので、実の息子が亡くなっても取り乱す様子はなかったが、父が亡くなってから半年後に、後を追うように(病気で)亡くなってしまった。父と祖母を亡くしたのは私が高校生のころ、そして祖父も私が大学生のころに亡くなった。


祖父母の家は持ち家だったので、相続の問題が持ち上がった。父が亡くなったので、私と、弟が代襲相続、となるのだが、弟は未成年だったので、叔父たちと、父の代わりに私とで祖父母の土地の管理や土地売却などを行なうことになった。


祖父母の土地を売却したのは、祖父が亡くなってから7年後くらいだったと思うのだが、ちょうどそのころ私は医学生として、地元からは遠方の他県に暮らしていた。なので土地の売却の手続きの際に、三男の叔父が気を使ってくれたのだろう。「君が来ると、学生だし交通費もかかるだろうから、実印と印鑑証明を送ってくれれば、代わりに手続きをしておくよ」と言ってくださった。


私は決して叔父を疑っていたわけではなく、「父の教え」通りに、「実印を押すのは責任があることだから、そちらに帰ります」と返答した。すると叔父は「そんなに私のことが信頼できないのか!」と烈火のごとく怒り始めた。「これは亡くなった父の教えであり、遺言みたいなものでもある」と伝えたのだが、その後も叔父の怒りは収まらなかった。


祖父母にとって、私が初孫であり、次に孫ができるまで6年近く時間が空いたので、ずいぶん叔父たちにもかわいがってもらった記憶があり、叔父にそのような態度を取られるのは大変悲しかったが、「父の教え」は今でも「正しい」と思っている。そんなわけで、授業の合間を縫って地元にとんぼ返りし、自らの手で、実印を押したことを覚えている。


以前にも書いたことがあるが、実家を売却することとなった。私の父が土地と家を購入し、父が亡くなった時は私も、弟も未成年だったので、母が父の財産をひとまず管理する、ということとなり、実家の名義は「母」となっていた。今は、母、継父は他県に住んでおり、私が一番実家に近いので、委任状を母に書いてもらい、私が代理できるところは私が代理して、不動産屋さんの指示通りに手続きをした。ただ、最後の最後、土地の売買契約については母の実印と印鑑証明が必要となった。


父の教えがあるので、「私」も「母の実印」を預かるのは抵抗があり、母に無理を言ってこちらに来てもらった。めったにお客さんを迎えることのない我が家なので、「母が来る」ということで大騒ぎ。たくさん片づけをして、手続きの前日に母に来てもらった。うちに泊まってもらい、手続き当日は仲介してくださった不動産屋さんまで車を走らせ、買主の不動産屋さん社長、行政書士の先生、一緒に土地、家屋を売るお隣さん(我が家は長屋の中の家で、お隣さんが端家、という関係なので、2軒まとめて売却する方が資産価値が高い)が集まる中で、手続きを行なった。母に来てもらったので、土地所有者である「母」の意向の最終確認もできるし、何か事が起きてもダイレクトに意思の確認もできる。なので、母に来てもらうことで手続きはスムーズに進んだ。実印については、押印の時に母から実印を預かり、母の目の前で私が押印する、という形にはなったが、それくらいは良いだろう。


無事手続きを終え、母の実家のあったところからそう遠くはない新幹線の駅まで母を送り、来年の確定申告の際に必要と思われる書類のコピーを渡して、改札口で見送った。


結局母が行なったことは、必要になるまで母が実印を持ち、実印を押すときには、私に押させてそれを確認する、ということだった。実際にしたことを考えると、そのために老体に鞭打ってきてもらったのは心苦しいところはあったが、時に息子の家に遊びに来るのも悪くはなかっただろう(迎える側は大変だったが)。


という、私の「実印」の思い出話である。

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