第367話 まちがってない!まちがっている!

2016年、兵庫県の赤穂市立病院健診センターでインフルエンザワクチンを左腕に接種された男性が、その後左肘に痛みなどを訴えた(接種直後なのか、接種してから30分とか1時間とか経ってからなのかは情報がなく不明)。その後時間が経っても症状の改善が見られなかったそうだ。


法廷闘争があったのかどうかは記事には記載がないが、病院側の調査ではワクチンを左肘関節付近(どれくらいの近さなのかは不明)に接種したことで、神経を損傷した可能性があると判断した。市側はこれを「医療ミス」と認め、和解金1500万円を支払う方針を明らかにしたとのことだ。


病院側は、「本来は左上腕部の上から2/3の位置に注射すべきだった」と説明し、定例会合で「刺針を行なった部位に誤りがあったことは明らかで、過失は免れない」として医療過誤と認定、原因については「接種担当者の手技的過失」としている。男性の症状はその後悪化し、別の医療機関で診断を受け、左上肢に強い痛みがあり、左手指を開けない状態が現在も続いているとのことである。


という記事を読んだ。もちろん情報がこれだけしかないので、「なんだかんだ」と言ってみても、実際を見ると「あぁ、そういう事だったのか」という事があることは理解していただきたい。そのうえで、少し考えたことを書きたいと思う。


まず、被害を受けた男性の苦痛、苦悩に対しては、大変痛々しく、お気の毒に思う。予防接種に限らず、私たちがごく普通に行う「採血業務」や「静脈注射、点滴」などで「針を刺す」という行為で、頻度は稀ではあるが、このような後遺障害が出ることは十分ありうることであり、それについては、ある意味「避けがたい」ところでもある。教科書的に「採血」や「静脈注射」などを行なうに適した部位とされる「肘正中皮静脈」の穿刺で、約1万例に1回程度の割合で、しびれなどの神経障害を残すリスクがある、と言われている。血管のすぐそばに神経が走行していても、外から見てわからない。という点で、低い確率であるが、そういった「事故」は避けられないのである。


以前に「医療ミス」がなくても「医療事故」は起きる、と書いたことがあるが、今回のことについても、同様である。報道では「穿刺部位が肘関節に寄っていた」とのことだが、どのあたりに接種したしたのかでも、議論のあるところだと思う。


インフルエンザワクチンの添付文書、厚生労働省の「予防接種実施規則」「定期接種実施要領」を確認したが、文書として記載されているのは接種部位は「上腕伸側」とされているのみで、接種部位については、上記の三文書確認したが、明確に「この位置に接種」と規定されている表現はなかった。この点では、COVID-19ワクチンが明確に、「三角筋に筋注」と指定しているのとは大きく異なっている。


さて、医学生、あるいは研修医がワクチン接種において必ず注意されるのは、「上腕を三等分した時に、真ん中1/3にはワクチンを接種してはいけない」という事である。理由は、その辺りで橈骨神経が上腕骨の周りを回旋し、比較的浅い位置を神経が通るため、その部分は避けなければならない、という事である。なので、ワクチン接種を行なうのは上腕の上1/3あるいは下1/3である。私だけかもしれないが、少なくとも私はワクチン接種部位についてはそのような形で考えている。


そういう点で、病院側が「ワクチン接種は上腕上部から上2/3の位置(という事は下1/3という事)に接種すべきであった」というのはある意味正しいが、ではその位置にピンポイントで接種しなければならないか、というとそういう事は現実的には不可能である。わざわざ上腕の長さを測定して、上腕上方から2/3の位置を算定する、なんてことはする暇もないし、実際にそんな悠長なことをしているわけでもない。パッと見て、「大体この辺り」と見当をつけて接種する、というのが現実である。


医療の世界では、明確な数字(〇cmなど)の表記だけでなく、古典的な表現を慣用的に使う事も多い。例えば、腹部の触診で、何か硬いしこりを見つけた場合に、「径8cm程度の腫瘤」と表現することもあれば、「成人手拳大の腫瘤」と表現することもある。長さ、あるいは二つのものの距離を測るときに、「横指(文字通り、指を横にした時の長さ)」で測るときも多い。実際にCOVID-19ワクチンの接種部位についても、「肩峰下4横指」の位置、と記載があるくらい、よく使われる表現である。


今回の医療事故について、接種部位が「肘頭(軽く肘を曲げて肘関節の伸側を触ってもらい、跳び出ている骨の部分。尺骨の近位端)」からどれくらい離れていたのかも重要である。肘頭の1~2横指上方に接種、という事であれば、確かに「肘関節」から近い、と思うが、肘頭から3~4横指離れたところに接種していれば、それを「誤り」とするのはいかがかと思う。病院側が提示した「上腕の上のところから2/3の位置」と、肘頭上方4横指、差は2横指くらいだと思う。


診療所時代は、乳幼児のワクチン接種も担当しており、特に乳児期には接種するワクチンが多く、時には6種類(ロタウイルス経口、アクトヒブ、プレベナー13、4種混合、HBVワクチン、HAVワクチン)希望なんてこともあり、両上肢にそれぞれ2か所+太もも1か所とせざるを得ないことも多かった。基本的には、乳児期のワクチンは4か所が鉄板だったと記憶している。そうすると、上腕の上1/3、下1/3と言っても、極めて幅が狭い。また、小児のワクチンキットに付属の穿刺針、「乳児に接種するのに何で針が長さ5cmくらいやねん」というほど針が長かった。親御さんと看護師さんの二人で保定しても、赤ちゃんの力、結構強くて、穿刺時に動くことも珍しくはなく、「皮膚の穿刺部」は上腕下1/3で、私の手が下手に動かないように赤ちゃんの腕に密着させていても、赤ちゃんの思わぬ動きで針がそれなりに深く入ってしまい、針先は真ん中1/3まで入ってしまったのではないか、という事も珍しくはなかった。


そんなことを考えると、おそらく「穿刺部位が不適切だった医療ミス」と明言することが「和解条件」に入っていたのだろうが、「穿刺部位が不適切」という事について、それが本当かどうか、というのは詳細な情報がなければわからない。少なくとも、自分でじっと我慢できる大人へのワクチン接種で、肘頭上1~2横指あたりに穿刺、なんてことはないように思うのだが(もしそうなら、「手技の問題」としていいと思う)。仮に肘頭上4横指の位置への穿刺であったとしたら(しかも針は上方に向かって穿刺するわけで)、それが適切な穿刺部位より極端に肘関節に寄っている、とは言いづらいように思うのだが。


ただ、少なくとも、仮に「医療ミス」がなかったとしてもこのような「医療事故」は起きるわけである。被害者救済は当然のことであるが、「医療事故が起きた」=「医療ミスがあった」という短絡的志向も避けてほしいと思う。


適切な手順で採血をしたり、点滴をしたりしても、神経損傷が起きるときは起きるのである。「適切」に事を進めても、「医療事故」は起きうるのである。それは「医療」を行なう上で「どうしても避けられないもの」であることを知ってほしい、と思う。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る