第364話 個体としての生物学・分子レベルでの生物学

読売新聞で楽しみにしている連載の一つに、読者投稿欄の横に平日連載されている、「時代の証言者」という記事がある。およそ1か月単位で著名人一人に注目し、その子供時代からの人生を振り返ってもらい、自身の人生のターニングポイントや自身の考え方の源を語ってもらう、いわば「自伝」とでもいうべき連載である。確か日本経済新聞でも同様の記事が連載されているのを読んだことがある。残念ながら今、自宅でも職場でも日本経済新聞は取っていないので、詳細は分からない。確か一番裏の面に載っていたかと記憶している。研修医として過ごしていた病院では、複数の新聞を取っていて、日経新聞も取っていたので、その連載を楽しみにしていたことを覚えている。


さて現在、読売新聞の連載では養老孟司氏が取り上げられている。ご存じの通り、養老氏は昆虫好きで知られているが、大学に進学した時に、ちょうど産声を上げたばかりの「分子生物学」に対して強い違和感を感じたそうだ。


氏の言うには、「生物は個体それぞれが、複数のシステムが複雑に絡み合って個体を形成している。そのように「生きている『個体』を対象にした生物学」を考えるときに、「『生物を構成する分子』を対象とし、主に試験管内での研究結果をもとにした結果を重要視する『分子生物学』という学問」に対して、強い違和感を感じられたそうだ。氏はそういったこともあり、「解剖学」という学問に進んだと記事に書いてあったと記憶している。


現在の生物学の世界では「分子生物学」が非常に大きな位置を占めており、分類学も古典的な身体学的特徴ではなく、DNA配列の相同性から分類していく、という視点での分類学も大きな学問分野を占めており、どの生物学的分野においても、「分子生物学的視点」抜きにはほとんど成立しないものとなっている。


ただ、学生時代に氏が感じた違和感は、私としては「分子生物学」という学問のある種の限界を突いていると感じていて、そこに氏の知性を感じ、氏の意見に賛同の思いを持った。


分子生物学では、仮説の検証としてはin vitro(試験管内での実験)→ex vivo(生物の体外での臓器などの実験)→in vivo(生体を用いた実験)という流れになるが、in vivoの実験のツールとなりうる遺伝子改変技術(特定の遺伝子を挿入した「トランスジェニック動物」や、特定の遺伝子を不活化した「ノックアウト動物」の作成など)で生み出された個体が、特定の挙動を示したときに、果たしてそれが「実験仮説」を証明するものとなりうるのか、という点で、現在でもその論理の正しさについての検証が不十分であると私自身も感じているところであるからである。


もちろん、分子生物学的知見に基づき創薬された多数の薬剤が、想定された効能を発揮し、難治疾患(悪性腫瘍なども含めて)に対する福音となっているのは否定しないし、「分子生物学」という学問の重要性も強く感じている。ただ、科学教育を受けてきたものとして、「分子生物学的知見の”in vivo”での解釈」については、「予想通りの結果が出た」ということと「実験仮説が正しかった」を本当に等号で結んでよいのか、という疑問をどこか心の片隅に置いておかなければならないと思っている(それは生物、生体の分子生物学的解明がまだまだ不完全であること、生体を「生物」ならしめる「システム」が本当の意味で「解明されていない」ことに起因していると思っている)。


そういう点で、氏の「分子生物学」に対する直感的な忌避感は、科学者としてあるべきものだ、と記事を読んで思った次第である。


哺乳動物では、脊椎については頚椎が7つ、胸椎が12個、腰椎が5個とされている(もちろん破格(規則外)はあるが)。肉眼解剖学は数百年の歴史がある学問であり、ある意味「ほぼネタが出尽くした」学問という印象はあるが、人体解剖学ではないが、キリンの肉眼解剖学者が、キリンの解剖を通して、キリンの首の可動性の大きさについては頚椎だけではなく、第一胸椎も大きな可動性を持っている(従来、胸椎は最も可動性のない椎体と考えられていた)ためである、ということを数年前に発見した、ということをその経緯も含めて、発見した方が読みやすい本として出版されているのを読んだことがある。あるいは、人工の構造物に生物の持つ特徴を加えることで、より目的に適したものを作る、という学問も進んでいる。


少し脱線したが、養老氏が学生の時に感じたという「分子生物学に対する違和感」、生き物を愛する人の視点としては間違ってなかっただろうなぁ、と思った次第である。

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