第363話 「古典」で重要なものだ、とはいうものの…。

私が中学生のころ、夏休みの宿題で「百人一首」を覚えてくること、という国語の課題が出たことがあった。基本的に不真面目な私は、あまり真剣に覚えず、何となくお茶を濁していた。お正月のカルタ遊びと言えば、「いろはがるた」か、「百人一首」だが、私の実家にはどちらもなく、そのことにあきれた私の彼女(現妻)が、百人一首を買ってきてくれたほどだった。


年月が経ち、私たちは結婚し、二人の男の子に恵まれた。長男君は、もともとのセンスがあるのか、私や妻のセンスのピークをすぎ、衰えてしまったのか、「カルタ遊び」をすると毎回、6歳くらいの長男君の「圧勝」だった。「早期教育」を意識していたわけではないが、それだけカルタが強いなら、という事で「百人一首」と、子供向けの「百人一首の和歌解説本」を買ってきた。小学生になったばかりのころだったか、長男君は熱心に解説本を読み、ほぼほぼすべての和歌を暗記してしまった。


子供たちが小学生のころに行なっていた、正月の家族対抗百人一首大会では、長男vsほかの3人連合軍で戦うのだが、大概長男の圧勝で幕を閉じていた。ただ恐ろしいことに、長男の通っている学校。中学生のころに学年内で百人一首大会があったそうだが、そのような恐ろしい長男君が「予選負け」したそうだ。何とも恐ろしいことである。


閑話休題。そんなわけで、私は意味も考えずに適当に百人一首の和歌を覚えていた。もちろん、長男に「百人一首の解説本」を買ってあげたときも、私もその本を読んだが、やはり「子供向け」。際どいことはうまい具合にごまかしてある。


関西ローカルの会社なのかもしれないが、高級おかきの会社で「小倉山荘」というブランドがある。そこの高級おかきで、一袋に数個のおかきが入っている小袋が入った詰め合わせの贈答品で、その小袋の中のプラスチックに、百人一首の和歌が書いてある、というものがある。贈答用なので、お中元やお歳暮の季節に前職場の診療所に送られてくることが多く、スタッフみんなで分けていた。


ある日、たまたま私の食べたおかきの器に書いていた歌が気になった。


「名にしおわば 逢坂山のさねかづら 人に知られで くるよしもがな 三条右大臣」


現代語訳をネットで調べて仰天した。


「名前の通りならば、逢って一緒に寝る(さね)という名の逢坂山のさねかずらよ、そのつたを繰るようにして、人に知られないように(愛しいあなたが)くる方法はないものだろうか」とのことだった。ちなみに「逢坂山」は京都市山科区と滋賀県大津市を境する山で、かつては「逢坂の関」という関所があったそうだ。今も交通の要所で、逢坂山を貫く名神高速道路のトンネルは、「これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」と歌った蝉丸にちなんで、「蝉丸トンネル」と名付けられている。


閑話休題。いや、これは小学生にはまずいだろう、と思って家に帰って子供用の解説書を見てみる。さすがに「一緒に寝る」は書いてなかった。ふぅ。危ない危ない(中学生ならOK!)。妻に頼んで(妻は中学の同級生)、中学時代の百人一首の教科書を出してもらう。その辺りはやはりぼやかしているようだ。


百人一首の中の「恋の歌」で歌われているのは「大人の恋」である。「大人の恋」とは言っても、洗練されたものばかりではない。あふれ出る恋心を必死で抑え込もうとしている歌や、ただ不器用に恋心を歌っているものもある。洗練されたもの、泥臭いもの、嫉妬心、そんなものをひっくるめて「大人の恋」だと思う。


在原業平の和歌

「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」

(様々な不思議なことが起きていたという神代の昔にも聞いたことがない。龍田川の一面に紅葉が浮いて、紅色に 水をくくり染めにしているとは)


の歌も、この歌を詠ませた藤原高子と初めて出会ったときに彼が彼女に言ったとされる「昔よりこの方、このような美しい人はいますまい(神代もきかず)」という言葉や、その時に彼女が来ていたチャイニーズレッドの衣装(チャイニーズレッド=からくれなゐ)を歌に読み込んでいる、と解釈されている。藤原髙子と在原業平の恋は大問題に発展したそうだが、そのほとぼりも冷め、皇后となった高子と、臣下である業平の立場の違いを越えて、二人だけが知っている言葉を織り込んでいる、という点では「大人の恋」なのかもしれない。


「今はただ 思ひ絶へなむとばかりを 人づてならで 言ふよしもがな 左京太夫道雅」

(逢うことが不可能となった今となっては、ただ、あなたへの想いをきっぱり絶ってしまおうと(私が苦しみながら)思っていることを、人づてではなくあなたに直接言う方法があればなぁ)


という歌は今も、私の心を締め付けるほどに力強い悲しさを歌っている。禁じられた恋に落ちた二人は、いわゆる「社会のルール」で引き裂かれてしまう。もう会えなくなったあの人に「あなたのことは諦めます」と直接伝えることもできない苦しい恋心が今も私の心を締め付ける。


恋をしていれば、想い人と気持ちが通じ合った瞬間、本当に幸せで、でもこのような幸せが永遠に続くわけがないと頭ではわかっているから、「今、この瞬間に、この気持ちのままで死んでしまいたい」と思う事もあるであろう(少なくとも私はあった)。やはりいつの時代も同じように感じる人はいるようで


「忘れじの 行く末までは かたければ 今日を限りの 命ともがな  儀同三司母」

(「あなたを決して忘れない」とおっしゃってくれたけど、その言葉が遠い将来まで変わらない、という事は難しいでしょう。だから、その言葉を聞くことができた今日この時に命が尽きてしまえばいいのに)


という歌は、激しく同意する。全くその通りだと思う。


そんなこんなで、大人になって百人一首を読んでみると、若いころのように丸暗記はできないが、歌い手の気持ちが自分の気持ちと共鳴するような感覚がある。


それだけ私が年を取った、という事なのかもしれない。


因みに「源氏物語」も重要な古典文学で、私はあんちょこに漫画「あさきゆめみし」で内容を把握したが、これもまた、なかなか教科書には載せにくいものである。


確か、最後の共通一次、私の高校2年生の時の国語で源氏物語から出題されたことがある。確か「柏木」(男性)が源氏の正妻である「女三ノ宮」に横恋慕し、もちろん許されない恋なので、「女三ノ宮」の飼っていた子猫をもらうが、ネコが「ニャーオ」(原文では「ねーう」)と鳴くたびに「ねーう」が「寝よう」と聞こえてしまって、もう柏木はヘニャヘニャになってしまう場面が出題されたと記憶している。この場面、「あさきゆめみし」では原文に沿って描かれているようで、マンガを読んでいて「この場面だ」と気づけば、設問はとても簡単に解ける、という事ですこし社会問題化したように記憶している。


中学生時代には、「光源氏はロリコン」みたいな意見もあったように記憶しているが、「あさきゆめみし」を読む限りでは、「紫の上」を手元に置いたのは、「彼女の幼さ」を愛したのではなく、彼女の中に彼の理想の女性「藤壺の宮」を見たからであろうと思う。という点で、「光源氏」が「ロリコン」というのは当たらないだろう、と個人的には思っている。


とまぁ、取り留めのないことを書いてしまった次第である。

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