第307話 「ありがとう」と言ってもらえる仕事

私が医師を目指している、と恩師にお話しした時の話は以前に書いたことがあるが、その後、受験までの間も事務当直の仕事は続けており、折に触れて恩師と雑談をする機会があった。いつだったか恩師が、「保谷君、医師という仕事は「ありがたい」仕事だと僕は思っているよ。職業に貴賤はない、とは言うけど、仕事をして、心から「ありがとう」と言ってもらえて、お金を頂ける仕事って多くはないと思うんだ」とおっしゃられたことがある。確かに恩師の言う通りだと思った。確かに人から感謝されて、お金を頂くことのできる仕事は少ないと思う。


水曜日は私の訪問診療担当日である。直近まで脳梗塞、左不全麻痺で入院され、自宅退院された方の退院後初めての訪問診療であった。80代後半の認知症をお持ちの方。普段は奥様が介護されているが、左不全麻痺で居室からトイレに行くのも難しくなり、小柄な奥様お一人では介護ができない、とのことで入院していただいた。


最初の診察時、左上下肢の麻痺、筋力低下はわずかであり、それなりの認知症をお持ちの方だったので、「入院」とすれば必ず「入院後せん妄」を起こすであろう、そのために薬を使えばADLの低下は進行するであろうし、薬を使わなければ、転倒などでこれまた困ったことになるだろう、と考え、一度は抗血小板薬を処方し、自宅での継続加療を選択した。しかしながら小柄な奥様ではご主人のサポートには限界があったようだ。「限界で~す!」とHELPが入ったので、入院してもらった経緯があった。


予想通り、入院後はせん妄がひどくなり、興奮を抑える漢方薬と不穏幻覚を抑える抗精神病薬を追加し、何とか入院生活が可能となった。リハビリも行ない、脳血管障害の急性期は適切なリハビリ介入でADLの改善が望めることが多いので、訪問リハビリも導入し、うまくいくことを祈りながら退院、とした方である。


訪問すると、いつもの通り奥様が出迎えてくださり、「先生、この節は大変お世話になり、ありがとうございました。本人も支え無しでトイレにも行くことができ、本当に助かりました」と言って下さった。ご本人も、いつも通り、ベッドから離れて、リビングに置いている椅子に腰かけておられた。身体所見は問題なし。左の不全麻痺についてもほぼわからない程度に回復しておられた。


「良くなられて、本当に良かったです。奥様が苦労していないかと心配していたのでほっとしています」とお伝えし、従前の定期処方薬と、脳梗塞に罹患、入院後に開始した抗血小板薬などの薬剤を継続投与とし、その日の診療を終了とした。奥様は私たちが帰るまで「本当に助かりました。ありがとうございました」と感謝してくださった。


もちろんその感謝は私だけでなく、当院全体への感謝の言葉だと思っている。病棟スタッフ、リハスタッフ、訪問介護や訪問リハビリのスタッフ(これは他の事業所だが)が頑張ってくれたおかげで、このような良い結果になったと思っている。


とはいえ、今回のように、心から感謝していただけるのは本当にありがたい。こちらの方こそ、「感謝していただいて、本当にありがとうございます」である(もちろん、そのように奥様、ご本人にもお伝えした)。


そのお宅への訪問診療を終え、往診車に戻る途中に、前述の恩師のお言葉をふと思い出した。責任があり、常に冷や冷やしている仕事ではあるが、心からの感謝を頂くと、本当にありがたく思う。恩師の言葉通りである。ありがたいことである。

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