第279話 狗子仏性、隻手音声・・・「看話禅」、禅問答

つい先日学んだことだが、臨済宗の修業では、「公案」と呼ばれる、悟りのヒントとなる話を師匠から与えられ、それについての答えを求めながら修行の生活(禅宗では生活すべてが修業となる)を送るそうである。坐禅を組むときも頭の中にはその「公案」が占めていて、瞑想の中でその公案を考える禅を「看話禅」というそうだ。


「公案」は悟りのヒントとなるが、論理的ではなく、論理的に考えると破綻してしまうそうである(だから考え続けないとならないのだが)。代表的な公案が表題に挙げた「狗子仏性」の公案、「隻手音声」の公案だそうな。


「狗子仏性」の公案とは次のようなものらしい。


趙州和尚、因みに僧問う、狗子に還って仏性有りや、也無しや。州曰く、「無」。


中国に趙州という偉い僧侶がいたそうな。その弟子が師匠である趙州に、「犬に仏性(仏としての性質)はありますか。ないですか、と尋ねた。師は「無」と答えた、という意


涅槃経で釈尊は、「一切衆生皆有仏性」、「山川草木悉皆成仏、草木国土皆有仏性」と説いており、すべてのものが「仏としての性質を持つ」と説いている。もちろん、この偉い僧侶もそのことは熟知しており、弟子も知っているわけである。そこで、この問答。この「無」とは何ぞや?この問答の伝えたいことは何ぞや?というわけである。私自身は禅宗の門徒ではないので、この公案の解釈はわからないのだが、私見としてはこの「無」というのは犬の仏性の有無への答えではなく、この問答そのものが「無」ということなのではないか、と思ってみたりする(あくまで私見です)。


隻手音声の公案は


両掌打って音声あり。隻手に何の声やある。隻手の声を拈提せよ。


両方の掌を打つと音がする。片手には何の音がある?片手の音を報告せよ、という意。


これもまた、答えに詰まる問いである。「公案」は論理的に考えると破綻する、という事なので、論理的に考えてはいけないようだが、それでも論理的に考えようとするのが人間の性である。という事で、また私見を述べることになるが、


① 質問が不自然だと考えてみる。前提条件は「両掌打って音声あり」なので、決して「手」あるいは「掌」が音を持っている、とは書いていない。ただ、両手を叩けば音がする、という事だけである。という事は、「片手には何の音がある?」という問いに対して前提条件は存在しないわけである。と考えると、「片手の音」はゼロか、無限大に発散するか、という事ではないか?と考えてみた。


② 「両掌打って音声あり」という事であるが、音は掌が出しているわけではなく、急激に圧迫された空気が両掌の隙間から爆発的に放出されるときに音が出ているわけで、「両掌打って音声あり」と言っても、掌はきっかけに過ぎない。因縁、因果論で考えると、「急激に圧力の高まったところから圧力の低いところに空気が移動すると、その圧力の差がエネルギーとなって音となる」空気の性質(因)が、「両手を打つこと」(縁)で「音が鳴る」(果)という事なので、手を打つという縁によって因果がつながった、と観ることができるのではないか?

という事で、片手と空気の関係を見ると、片手が作る「縁」の在り方によって現れる「果」としての音は無限に変化するのではないか?と考えてみた。


③ 片手を高速で振り回すと風切り音が聞こえるので、「隻手の音声」は「風切り音」である(笑)。


などと考えてみたが、どんなものだろうか(笑)?


臨済宗、曹洞宗とも依経の一つである「妙法蓮華経」(法華経)、その「方便品第二」に「諸仏智慧 甚深無量 其智慧門 難解難入 一切声聞 辟支私 所不能知」(諸仏の知恵は、はなはだ深く無量であり、その智慧の門は解し難く入り難い。一切の声聞や辟支仏の知ることができるものではない)、「仏所成就 第一希有 難解之法 唯仏與仏 乃能究尽」(仏の成就した所の第一に希有な解し難い法は、ただ仏と仏だけがそのことを十分に理解できる)とあるので、凡夫である私がわからなくて当たり前なのだが(笑)。

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