第278話 マインドフルネス、自律神経訓練法、禅

この数年で「マインドフルネス」という言葉をよく耳にするようになった。どうも、Googleの研修の一環として取り入れられたところ、その有用性が評価され、大々的に広がってきた言葉らしい。


マインドフルネスの手法として呼吸に集中する瞑想、というものが有名だそうだが、この「マインドフルネスストレス低減法」は、禅を学んだ分子生物学者のジョン・カバット・ジンという人が1979年に提唱したそうである。なので発祥からは30~40年ほど経った手法であるが、やはりそのルーツには「禅(曹洞宗の「黙照禅」)」にあるとのことである。


私の身近に『禅』というものがなかったので、ついぞ今まで知らかなったのだが、「禅」には、曹洞宗が「只管打坐」と呼ぶ、心の中の思慮分別を一切断絶して「ただ黙々と坐る」ことで自らの仏性を開く「黙照禅」と、臨済宗で行なわれている「公案(悟りに至るヒントとなる問答)」を常に心に置き、その解決を考える手法として坐禅を行なう「看話禅」とに分かれるようである。個人的なイメージとしては、「坐禅」と言えば「黙照禅」のイメージだったのだが、このように「禅」と言っても二つに大別されることは知らなかった(ちょっと賢くなった?)。


そんなわけで、「黙照禅」から仏教的宗教色を抜き、その手法を心理学的手法として取り入れたものが「マインドフルネス瞑想」なるものらしい。マインドフルネス瞑想と聞くと、多くの人がやはり坐禅をイメージすると思うが、専門家に言わせると、それは似て非なるものらしい。


曰く、「マインドフルネス瞑想」は「ストレスの軽減」や「生産性の向上」、「心のレジリエンス(しなやかさ)の向上」など、近くにある結果を求めるのに対して、「禅」はそのような近視眼的な結果を求めず、「仏の悟りに近づく」というある種遠くの目標を目指している、という人もいれば、「『マインドフルネス瞑想』は呼吸に集中し、その瞑想の中で心の中に浮かんでくる様々な思いについては『あ、こんな思いがあるな』と客観的に見てそれを『流していく』こと、そういった思いを流して、自身の呼吸に集中すること」という手法であるが、「呼吸に集中する自分」を意識している時点で、「黙照禅」からは離れてしまっている、という人もいる。どうもその辺りは個人の価値観、宗教観にも由来するので、ボーダーラインは不明瞭である。ただ「マインドフルネス瞑想」の発想の源流が「黙照禅」に会ったことは確かであり、その流れを引き継いでいることはわかる。


さて、話は私個人のことになるが、何度かメンタル不調を経験した。大きなものは3回。医学部受験直後、医師国家試験前、そして、数年前の「過労」と「人間関係」からきた現在も治療中のものである。


今は内服治療を行なっているが、前2回については、薬物療法だけでなく、「自律神経訓練法(自律訓練法)」というものを指導されたことを覚えている。これは1932年にドイツの精神学者 J・H・シュルツによって開発されたものらしい。


詳しい内容はネットで検索すればすぐ見つかるので、検索してもらえればよいのだが、これもどことなく、「マインドフルネス瞑想」と相通じるものがあるように思うのだが。


いずれにせよ、あるがままの今の自分を、あるがままに観ることが大切なのであろう、と勝手に思っている。

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