第231話 おバカちゃん…。

私は内科学会が認定している「総合内科専門医」の資格を持っている。そのほかにもいくつか資格を持ってはいるが、絶対に手放せないのがこの「総合内科専門医」である。「総合内科専門医」という事で、在宅医療を行なう上で絶対に持っていた方が便利な「難病指定医」も無審査で認定されることができ、「専門医」を持っていることで、わずかではあるが給料に「専門医手当」もついている。何より、専門医を取るには物理的に時間が必要であり、その資格を取れる病院での勤務が必須である。初期研修医、後期研修医を過ごした病院はその資格を取れる病院であったが、そこを離れてからは、何かの認定医、あるいは専門医をとれる場所では勤務していない。なので一度失ってしまうと、再度「専門医」をとれる病院に転職し、また6年間の修業が必要となる。それだけでなく、付随するいろいろなものも習得する必要があり、とても面倒なことになる。


総合内科専門医は5年に一度更新、となっており、更新のために学会が企画する総会や講演会、地方会などに出席する必要があり、それとは別に、自身の内科医としてのレベルが維持できているか、の評価となる「セルフトレーニング問題」を取り寄せ、回答し、6割以上の得点を得なければならない。


そんなわけで、今年の夏に「セルフトレーニング問題」を取り寄せ、解答し、答案を学会に提出し、昨日結果が帰ってきた。一応合格基準の6割を超えることができ、ひとまず安心したが、残念ながら得点は平均値に届かなかった。専門医試験は平均を大きく超える得点で合格したはずなのだが、この結果からは、「私の知識が十分にブラッシュアップされていない」という事を意味している。「あぁ、なんて厳しい現実」と現状を痛感した。


その一方で、出題は各分野のスペシャリストが作成するので、知識としては比較的先端、あるいは、かなりひねった問題が出題され、これがなかなか一筋縄ではいかないし、設備も薬もあまり置いていない、地域のいわゆる「老人病院」では出くわさない、あるいは使う事のない薬が出題されることが多い。言い訳かもしれないが、地域の一次医療機関で仕事をすると、自分で積極的に勉強をしているつもりでも、知識は追いつかなくなってくる。


1990年代に大学生、大学院生だった私は、そのころの「ヒトゲノム計画」の状況をよく覚えている。莫大な情報量を抱えるDNAをサンガー法で一文字ずつ読んでいく、という事をしていたので、ずいぶん人とお金をつぎ込んだ計画だった。全ゲノム配列を明らかにしたときには科学雑誌“Nature”に、全配列が記載されたことを覚えている。


技術の革新で、今では同じ量の遺伝子配列の解析にはほんのわずかにしか時間がかからない。なので、特に遺伝子変異が積み重なって発症する「ガン」の世界では、その腫瘍が有する遺伝子配列を解析して、抗がん剤を選択するという事が当たり前になっている。


残念なことに、残念な頭しか持っておらず、そういうチマチマしたことを考えるのが好きではない性格の私には、そのような細かな知識を要する医療は似合わない。


科学が進歩する一方で、人間がかかる病気は、多くのものが古くから知られている疾患で、疾患によって、身体に出てくる症状、所見はやはり古くから知られているものが多い。実際に前時代の医師は、そのような小さな身体所見の変化に気づいて診断をつけてきたのである。


という事で、私も、過去の医師が築き上げてきた「身体所見」を大切にしている。というか、自院でMRIなど、高価な機器を要する検査ができないので、身体所見で補うほかない、というのが実際でもあるが。


閑話休題。そんなわけで「セルフトレーニング問題」、難しいのである。例として私の思考過程(もちろん間違えたのだが)をつけて1問だけ持ってきた。


救急医療で、火災にあわれた方の治療は重要である。目に見えるところだけでなく、目に見えないところの熱傷(気道熱傷など)や、有毒ガスの吸引など、考えることがたくさんある。今回私の解いた問題冊子では、第一問に火災にあわれた方の問題が出題されていた。


医学部生が受ける国家試験であれば、火災で体表の熱傷が問題にならないレベル、とくれば大概は、気道熱傷か一酸化炭素中毒の対応が問われることが多い。ところが、さすがは総合内科専門医のトレーニング問題、一筋縄ではいかなかった。


30歳の男性が、火災発生から1時間後に、現場近くで倒れているところを救出され、意識障害があるために病院に搬送された、という状況であった。意識レベルは不良、呼吸数20/分、BP 118/70,PR 112、酸素は、リザーバーマスク 15L/分の投与で酸素飽和度98%。体表にⅡ度以上の明らかな熱傷は見られない(という事は「熱傷の問題」ではない)。鼻腔内は煤の付着が見られるが、鼻毛は焦げていない。口腔内に軽度の煤の付着が見られる(という事は、ある程度煙は吸いこんでいるのだろう。でも鼻毛が焦げていないから、熱い煙を吸い込んだわけではなさそうだ。気道熱傷の問題でもなさそうだ)。気道に明らかな障害は認めない(なんだ、書いてあるじゃないか)。呼吸音に異常はない。


うーん、ここまで読むと、患者さんは一酸化炭素中毒で、治療は大量の酸素投与かな、と国家試験を受ける人であれば考える。


検査所見:動脈血液ガス分析(搬入時):pH 7.15、PaCO2 22、PaO2 308、HCO3 8、COHb 18%、乳酸15mmol/L


検査結果を見ると、COHb(一酸化炭素が結合したヘモグロビン)が18%とめちゃくちゃ高く、乳酸も高い値となっており、過換気状態にもかかわらずひどいアシデミアがある。とここまで読んで、選択肢を見て凍り付いた。質問は「この患者に使用する薬物として適切なものはどれか」というものだった。


選択肢の中に「高流量酸素」は全く入っていないのである。まずここから途方に暮れた。第一問から沈没である。選択肢は1)チアミン(ビタミンB1)、2)ナロキソン(麻薬拮抗薬、麻薬で呼吸が止まりそうになった時に使う薬)、3)フルマゼニル(ベンゾジアゼピン拮抗薬、睡眠薬の過量摂取で呼吸が止まりそうになったり、意識障害を起こしているときに使う薬)、4)デフェロキサミン(鉄のキレート剤、鉄過剰状態になっているときに使う薬)、5)ヒドロキソコバラミン(いわゆるビタミンB12)、以上が選択肢であった。明らかに2,3,4が違う事はすぐわかる。1のチアミンと5のヒドロキソコバラミン、答えはどっちだ??と悩んだ。少なくとも医学生時代、中毒の治療でビタミンB12が出てきたことはないように記憶していた。


細胞は、グルコース(ブドウ糖)をエネルギー源として生きており、そこから、細胞活動のエネルギーであるATP(アデノシン3リン酸)を作り出している。酸素のない状況でも働く「解糖系」では、1分子のブドウ糖から2分子のATPが作り出され、そのゴールはピルビン酸→乳酸である。ところが、ミトコンドリア内で酸素を使ってATP産生を行なう「クエン酸回路」が働くと、解糖系+クエン酸回路で1分子のグルコースから36分子のATPが作られ、最終産物として、水と二酸化炭素が排出される。


この患者さんの乳酸値は非常に高いので、細胞内は「酸素不足」でうまくクエン酸回路が動いていなかったことを示している。酸素を投与して、それなりの酸素が細胞に供給できる状態にはなっているようであり、「クエン酸回路」を構成する酵素の「補酵素」として、ビタミンB1が重要であることがわかっている。


という事で、一酸化炭素中毒で細胞内低酸素状態となり、乳酸アシドーシスを来たした、と考えて、クエン酸回路を動かすために補酵素であるチアミンを選択したのだが、解答を見ると間違い!(なんてこったい)


先に述べたように、火災は一酸化炭素だけでなく、様々な有毒ガスを出す。この問題は、一酸化炭素ヘモグロビンと乳酸の値から、アシデミアの原因として、シアン化水素(青酸ガス)中毒を考える、というのがまず一つの山だった。


血液中のヘモグロビンや、サイトクロームと呼ばれる酵素群では、その機能を果たす部分には、「ヘム」と呼ばれる鉄化合物を持っている。シアンはそのヘムの鉄に結合することで、毒性を出すことがわかっている。なので、シアン中毒の治療は、ヘムからシアン基を外す、という事になる。ただ、シアン中毒、として医学生時代に勉強したのは、亜硝酸・チオ硫酸療法だけ(教科書にもそれしか載っていなかった。シアン中毒で検索をかけても、圧倒的に亜硝酸・チオ硫酸療法のことが引っかかってくる)であった。


ここで2つ目の知識として、ビタミンB12(コバラミン:コバルトの化合物の一つである)は、シアン基を持ったシアノコバラミンと、問題の選択肢にあった、水酸基を持つヒドロキソコバラミンがある、という事である。シアン中毒を発症している方に大量のヒドロキソコバラミンを投与すると、コバラミンのコバルトが、ヘム鉄からシアン基をぶんどって、シアノコバラミンになってくれるとのこと。という事で正解は「ヒドロキソコバラミン」とのことだった。


確かに亜硝酸・チオ硫酸療法は結構荒くったい治療法である。それをするよりヒドロキソコバラミンを投与する方が気が楽である。


こんな感じで、どの問題もひとひねり、ふたひねり聞いた問題が出題されていた。


このように「セルフトレーニング問題」を解く、という事で「セルフトレーニング」してください、というのが内科学会のスタンスなのであろう。普段全く使わない知識なので、いろいろ勉強になったが、それでも平均点に届かないのは、「わたしっておバカちゃん…」と落ち込んだ。

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