第230話 訪問診療には土地勘が必要

訪問診療をしていて、大切なこと且つ時間がかかることが「その地域の地理を覚える」ことである。地理が分かっていれば、新規に訪問診療に入った患者さんの家がどのあたりにあるか、ということもわかるし、普段別の医師が訪問診療している人の急変時にもすぐに駆け付けることができる。


ただ、その細かい地理、土地勘とでもいうのだろうか、なかなか身に付けるのが難しい。特に、その地域に住んでいなければなおさらである。


私が本格的に訪問診療にかかわるようになったのは後期研修医1年目(つまり医師として3年目)、呼吸器内科をローテートしていた時だった。とある日、珍しく呼吸器内科回診(といっても、師匠、ナンバー2のU先生、そして後期研修医の私の3人だけ)を行なっていた時だった。部屋から部屋へ移動しようとしていた時に、突然師匠のPHSが鳴った。師匠が電話に出ると、突然渋い表情になった。廊下で電話が終わるのを待つ私たち、「それ、どうしてもその曜日しかダメなの?」と困った顔の師匠。電話の様子からは、おそらく外線で、仕事の依頼のようだったので、おそらく本部からの電話だったのだろう。電話を切ると、しばし困った表情の師匠。すると何かをひらめいたようで急に表情が明るくなり、私の方を向いて一言。「先生、往診好きでしょ?」


師匠からの言葉である。指導医の問いかけに対するレジデントの返答は「はい」か“Yes”しか存在しない(半分嘘)。とはいえ、私の目標としていた医師の将来像の中には、「訪問診療」を行なうことも含まれていた。なので、特に“No”と断る必要もない。「はいっ!」と返事をした。


その後、回診をつづけながら、師匠が教えてくれたのは、やはり先ほどの電話は本部からのもので、系列のK病院で内科医の一斉退職が起き(謀反なのか、たまたまタイミングが重なっただけなのかは不明。私のいた病院も、K病院も内科は初期研修医からの生え抜きが多いので、大学からの引き上げ、というのはあり得ない)、外来が回らなくなったそうである。そこでいくつかの病院から非常勤、という形で内科医を集めることになり、そのメンバーの一人として師匠に指名がかかったとのこと。ただ、本部から指示されたのは金曜日の午前、とのことだったが、金曜日は師匠の訪問診療日であった。なので、訪問診療の患者さんをどうしよう、と悩んでいたとのことだった。


師匠曰く、「訪問診療は医者を選びます。内科医でも「訪問診療が平気」という人もいれば、「絶対訪問診療は嫌だ」という人もいます」とのことだった。確かにその通りで、訪問診療で行う医療と病院で行う医療には大きな違いがある。一番の違いは「使える医療資源」が全く違うことである。病院、特に研修医を育てることのできる、規模の大きな急性期病院であれば、オーダーを出せば、ほとんどがその日のうちに検査を行うことができるわけである。スタッフも多いので、侵襲的な処置も躊躇なく行える。困ったときには別の医師に相談できるわけである。という点で、病院はある種、設備と人で守られた場所である。一方で、訪問診療では容易にできる検査、というのはほとんどない。血液検査でも、採血をして、訪問診療がすべて終了した後に検体を出すか、あるいは急ぎで検体を出すために途中で病院に戻ったとしても、すぐ訪問診療を続けなければならないので結局結果を見るのは訪問診療終了後か、検査科の技師さんにお願いして、訪問診療中の私に外線で連絡してくれるようにお願いするか、ということになる。


医療機器もこの20年でずいぶん進歩し、スマホサイズのエコー機器、本当に持ち運びができるポータブルのレントゲン装置が市販されているが、私が訪問診療を始めたころは、そのようなものもなかった。なので、バイタルサイン、ぱっと見の印象、身体診察で基本的には判断しなければならない。それは結構ストレスフルな状況で、その状況に耐えられない、という内科医も多いのである。呼吸器内科ナンバー2のU先生は、呼吸器だけでなく、ほぼすべての内科領域の診療をこなせる人だったが、「訪問診療は絶対嫌だ」という人だった。その大きな理由は、「思ったときに必要な検査がすぐできない、という状況に耐えられない」ということだった。


研修医を育てる病院なので、いろいろな研修医がいる。中には「訪問診療加算」を給料に上乗せしてくれたら訪問診療に行きます、といった後輩もいたが、「何を言ってるんだ!」と師匠から一蹴されていた。


閑話休題。その当時、院内で訪問診療をしていたのは師匠と、循環器・糖尿病を主に診察していたM先生のお二人だけだった。どちらもベテランの先生方であり、その中に後期研修医1年生が入っていくわけである。


師匠の抜けた穴を埋める、という形で訪問診療に入るので、訪問日は金曜日、師匠の診ていた方で、「どうしても師匠に診てもらいたい」という患者さんは曜日をずらして師匠の訪問診療に、そうでない方、金曜日でないと都合が悪い方は私が担当することになった。


私の修業した病院は3つの市のちょうど境界あたりに位置しており、実際にERにも、その3市からの搬送依頼が多かった。またその地域の歴史も、おそらく平安のあたりから続いていたであろう地域であり、場所によっては入り組んだところもあり、また場所によっては区画整理がされ、整然とした場所もあり、多彩な地域であった。


初期研修医になってから住み始めた街であり、日常生活も、借り上げ社宅となるマンションから徒歩3分で職場(誤って院内PHSを持って帰ると、病棟からの連絡が入るほど)、職場とは逆向きに3分歩けばスーパーがあり、少しJRの駅には距離があったが徒歩圏内であり、私鉄の最寄り駅には7分程度で着くところに住んでいた。なので、それらのものから少し離れてしまうと、もうさっぱり土地勘が働かない、という状態だった。


おおよその土地勘が付き、自分の担当患者さんのお宅には自分の道案内でたどり着ける、というレベルになるのは2年ほどかかったであろうか?それまでは、頭の中では大通りでうんと離れたところにある、と思っていた地域が、裏道を使うと実は隣で、「ありゃ?どうなっているの?」とキツネにつままれたような思いを何度もしたことを覚えている。


研修病院を卒業し、診療所に移った時は、子供のころからのかかりつけだったので、自分の生まれ育った市についてはそれなりに土地勘が働いた。ただ、診療所も、3つの市の境目にあり、市境を超えて他市に入ると、地域によっては全然土地勘が働かないこともあった。特に山の手はさっぱりだった。これも土地勘がおおよそ付くまで3年ほどはかかったように思う。


現在勤務している病院に勤め始めて2年以上たつが、室町時代からの道が細くて入り組んだ地域や、おそらく1960年代ころに開発されたであろう、同じような道と家が並んでいる地域など、なかなか担当している患者さんの家を覚えきれていない。


今の病院で土地勘が付くには、もう少し時間がかかりそうである。

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