2022年 10月

第116話 生兵法は大怪我の基

2週間ほど前に入院された方である。もともと一人暮らしの方で、喉頭がん術後の方。当院非常勤医(10月から常勤医に復帰される)の訪問診療を受けていたが、4か所ある巨大皮膚転移からの出血がひどくなり、もう自分一人では処置できない、とのことで入院となられた。


病歴を確認すると、悪性腫瘍で凝固機能が混乱したのか前年に肺塞栓の既往があり、比較的最近までDOACを内服されていたが、入院前にDOACは中止となっていた。


喉頭がんで気管切開術を受けておられ、カフのついていない長い気管切開チューブを挿入されているが、入院時には両側の頸部(?:ちょうど両側胸鎖関節のあたり)に一つずつ、表皮下に小児手拳大(1歳児くらいの子供の「グー」の大きさ)の腫瘤、左腋窩に一部表皮を超えて進展している径3cm程度の腫瘤、そして左前胸部に二つ、どちらも表皮に覆われていない、一つは小学生くらいの子の手拳大、そしてもう一つは成人手拳大の腫瘤が顔を出していた。この成人手拳大の腫瘤が出血を繰り返している、とのことであった。


入院時は、出血部位のあまりはっきりしないoozing(じわっとした出血)だった。当院は変わった病院で、亜急性期~慢性期の患者さんを受け入れるが、時にはこのような出血などが問題点となる患者さんが来られるにもかかわらず、止血のためによく使われるカルトスタットやスポンゼルなどの止血用の物品が置いていない。物品を仕入れるためには、それなりの会議を通さなければならないのだが、今、医局長の席も空席になっており、誰に依頼をすれば新しい物品を導入できるのか、よくわからない状態で医師は走っている(走らされている?)状況である。


それはそれで困っているのだが、物が無ければ無いなりに対応しなければならない。当初はそのように、出血点ははっきりしないが、静脈性のoozingだったので、「出血時には出血部位を圧迫し、止血が確認出来たらそこにワセリンをドサッとのせて、ガーゼで圧迫止血」と指示を出した。いわゆる、ボクサーが試合中に出血した時、傷口にワセリンを押し込んで一時的に止血を行うのと同じことである。


そんなようにして入院管理を開始した。彼は手術で声帯をとっているので発語はできないが、こちらの言うことはしっかり理解し、ご自身の意思をジェスチャーなどでしっかり表明される。どうしても言葉でなければ伝わらないときにはホワイトボードにメッセージを書いてくれる。


毎朝の回診では、「今日はご気分はいかがですか?」と他の患者さんと同じように始める。調子が良ければ指で〇を、よくないときには×を出してくれる。調子のいいときには、睡眠の状態、食欲、呼吸苦、痛みの程度などを確認し、体に触れて体温の評価、胸部背部を聴診し、回診を終える。調子のよくないときには、「具体的には何がお困りですか?」と掘り下げていく。ジェスチャーや、ときにホワイトボードも使いながらやり取りを行い、感じている問題点に対して対応していた。時には「いっぱい出血して、貧血になってると思うから鉄剤が欲しい」と希望され処方したり、「なんとなく全身がだるい」と言われるときは、ステロイドを上乗せするか、どうするか考えたりもした。お体には筋肉もしっかりついており、悪液質でるいそうがひどい、というわけでもなく、出血などの急変イベントが無ければ、もうしばらくの余命が推定されるため、今のところはステロイドは保留としている。


そんなある日、朝の回診で、「数日前から息苦しい。肺塞栓の時と同じような感じなので以前もらっていた薬(DOAC)を出してほしい」と希望された。SpO2はroom airで98%と低下はない。バイタルも安定している。何より出血が続いているので、医療従事者であればほぼみんなが「やめといたほうがいいよ」という状態であった。もちろん、私も同意見だった。現状では肺塞栓が致命傷となるより、出血コントロール不良が致命傷となる可能性が高いと考えた。彼に「息が苦しいのは『肺塞栓』というよりも、病気そのものの進行(皮膚だけでなく、肺内にも複数の転移巣があることが分かっている。頸胸部の腫瘍を見る限り、おそらく気管も外側から腫瘍圧迫を受けて狭窄しつつあることが推測された)が原因となっている可能性が高いです。エリキュースを飲んでも呼吸苦は変わらないと思います。痛みや呼吸苦を楽にする薬を使いませんか」と繰り返し提案したが、彼は自身の意見を曲げなかった。こんなことで対立を深めても誰も得をしない。理解力のある本人がこちらの説明を聞いたうえで、それでもDOACを使いたい、というなら、本人の希望に沿うのが、医師(医療提供者)-患者関係を維持するのによいだろうと考えた。その関係が破綻したらみんなが不幸である。なので、看護部や薬剤部の批判は覚悟のうえで、カルテにそのやり取り、説明をしたうえでなおかつ本人が強く望んでいることを記載の上、少量のDOACを再開した。


彼の腫瘍の進展は早く、2週間で、見た目にも腫瘤が大きくなっていくのがわかるほどである。腫瘍径が1.3倍となっていれば腫瘍の容量は2倍になっている(1.3^3≒2)のだが、(腫瘍が2倍の容積になる時間をdoubling timeという)皮膚転移巣については明らかにdoubling timeは2週間未満である。腫瘍の増大、DOACの内服も関係しているのだろうが、腫瘍からの出血も様相が変わってきた、と報告を受けた。


「先生、最近は血が噴き出してくるんです」と看護師さんから報告を受けた。なので、時間を合わせて、ガーゼ交換時に私も入らせてもらった。ゆっくりガーゼを外していく(ガーゼを外す前から周囲に血液が垂れてくる)と、これまでのoozingだけでなく、細いがピューっと噴き出す血流も確認できた。「あぁ、動脈性の出血だなぁ、どうしよう」と考えた。本人には、毎朝、DOACはやめたほうがいいよ、とお話しするがそこについてはかたくなに拒否されており、いかんともしがたい。結局その時は、私が動脈性出血をきたしている部分に、ガーゼを小さく硬く折りたたんで、出血点の上から圧迫止血、ガーゼに血液が広がってこないことを数分確認し、硬く折りたたんだガーゼをそのままに、その上から再度ガーゼや吸収パッドを当て、いつもの処置をしてもらった。


週に一度、大学病院の皮膚科医が非常勤で病棟の患者さんの褥瘡などの皮膚疾患を診察してくださるのだが、その時に彼を見て、「そんなん、出血点をバイポーラー(電流で組織を凝固できるピンセット)で焼いたらおしまいやん」と言っていたと看護師さんから聞いていた。また、血流の多い胃静脈瘤に対して、シアノアクリレートという薬剤を血管内に注入し、血流を止め、胃静脈瘤、食道静脈瘤を抑える、という治療があるのだが、その「シアノアクリレート」という薬剤、何のことはない、瞬間接着剤の主剤である。なので、シアノアクリレートを使って、止血できないか、とも考えてみた。もちろん静脈瘤のように血管内に注入するのは困難なので、医療用使い捨てのビニール手袋の指先にシアノアクリレートを塗布して、その指で止血点を圧迫するのはどうだろう、とも考えた。シアノアクリレートが重合し固化するときに熱を発するので、組織がやけどしないかどうか、実際にアロンアルファ瞬間用を買ってきて、ビニール手袋に塗布、それを他の指(もちろん手袋をしているのでその手袋に)押し当ててやけどするほど発熱するかどうか、というのも確認した。実際にはやけどするほどは熱くなかった。


さて、土曜日、私の一週間でも1,2を争う忙しい日である。午前に外来があり、午後にはワクチン外来があり、60人ほどを診察、ワクチン接種しなければならない。7時からの自主的な朝回診を終えると、基本的にはduty workを片付けるだけで精一杯の一日となるのだが、残念なことに、ワクチン外来中に「創部から出血が止まらなくなった」との報告を受けた。

「ごめん、まだワクチン半分しか打ててないねん。ワクチン済んだらすぐ行くから、それまで圧迫止血で乗り切って!」とお願いし、ワクチン外来に専念。人手の少ない土曜日、さらにその午後なので、交代してくれる医師もいないのである。


ワクチン外来を終えると、もう日勤の看護師さんは引継ぎの時間となっていたのだが、看護師さんは頑張って圧迫止血を続けてくれていた。私はアロンアルファ瞬間用をもって、彼の病室に入った。土曜日に皮膚科の回診があるのだが、今回の皮膚科の先生は「腫瘍出血だから、バイポーラーで焼いても、また別のところから出血するので、意味がないです」と返信を書いてくださり、一応病室には用意してあったバイポーラーが残っていた。


彼のところに行き、「大丈夫?」と声をかけるとうなずかれる。看護師さんが圧迫していたガーゼをゆっくりはがすと、動脈性の出血点は2日前に確認した時は1か所だったのが、今回は3か所に増えていた。とりあえず何をするにしても、準備の間止血を続けなければならない。患者さんの腫瘍にもう一度ガーゼを乗せ、その3か所の出血点に指を置いてもらい、しばらく看護師さんに止血をお願いした。その間に、私の手袋を、新しいビニール手袋に付け替え、看護師さんに、「まず一つ目の出血点のところを、接着剤で止血を試してみるから」と告げ、人差し指にしっかりアロンアルファを塗ってもらい、ぎりぎりまで一つ目の出血点をガーゼで圧迫止血し、ガーゼを外すと同時にアロンアルファ手袋で出血点を押さえた。


止血は成功したかに見えた。ところが、そこで私自身が固まってしまった。「あれ?この後どうしよう?」と。ビニール手袋は手にある程度密着しているので、簡単には手袋は外れない。今の状態なら、指先で出血点を押さえているので、指先のビニール手袋だけを切り取るのも難しい。何とか慎重に指先のビニール手袋を切っていったのだが、少しひっかけてしまい、腫瘍組織はもろいので、今度はそこから出血がoozingとはいえ新たに始まってしまった。シアノアクリレート作戦、失敗…。ただ、動脈性の噴き出す出血は1か所止めることはできた。


もう一度、圧迫止血しながら、今度はバイポーラーで止血を試みる。機械をセットしてもらい、2か所目の動脈性出血点を挟む。挟むと血は噴き出さなくなった。そして通電し組織を焼灼止血する。すると、動脈出血は止まったが、今度は通電し焼灼した組織の外縁から新たにoozingが始まった。バイポーラーでの止血も不成功。この状態なら、おそらく止血のための縫合処置も、針を通したところから出血が始まると予想されるため、縫合止血も無理だと考えた。


で、結局これまで通りの圧迫止血を行なった。多分看護師さんの圧迫止血は、女性で力が弱いことと、出血点にピンポイントで圧迫ができておらず、止血がしなかったのだろうと推測される。私が5分ほど圧迫止血を行ない、その後圧迫をゆっくり除去すると、oozingも含め、見事に止血されていた。


大急ぎでガーゼをもらい、折りたたんで出血部位に当て、圧迫止血。上から枕代わりに固く巻いたガーゼを置き、弾性テープで圧迫。その上から通常の処置をしてもらった。


結局いろいろ試したが、圧迫止血が最も有効であった。


私の白衣のポケットにいつも入っている、医学生の時に購入した医学の格言集には、古くからの格言として「すべての出血は必ず止まる」と書いてあり、その下に、但し書きとして「ただし、すべての出血を止めるためには真の外科医を必要とする」と付け加えてある。


圧迫止血で無事に止血を得て、ほっとした時に、ふとこの格言を思い出した次第である。

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