第91話 何を驚くことがあろうか

9/3の読売新聞朝刊の「編集手帳」。夏川草介氏の新作「レッドゾーン」を題材にしていた。氏は、おそらく医師歴はほぼ私と同じくらいだろうと認識している。なので、おそらく現実の職場では「医長」あるいは「部長」の職責を担っていてもおかしくないと思っている。


さて、新聞では、「レッドゾーン」の本文から「現場が不安に突き落とされる場面がある」として、次の記載が引用されていた。『いずれ公にされることだから言っておくが、防護服もフェイスシールドも数か月で枯渇するだろう』と。記事では「さらにマスクの支給は週3回とされ、極力使いまわすよう指示が下る」とあった。「医師らはこれが医療大国と言われる日本の姿なのかと震撼する」と記事に記載があった。


未知のウイルスに対して、そのような装備で戦わなければならない、という恐怖心はよく分かる。ただ、COVID-19の始まる前から、物品の豊富な病院というのはそれほど多くはなかったと思っている。


「編集手帳」には、「人口当たりの病床数世界一の誇りは看板倒れになった」との記載があった。


少なくとも、私の周りの医師で「人口当たりの病床数世界一」であることを「誇り」と思っていた人はCOVID-19流行前からも、極端に言えば、私が医学部に入学したころからも含めて、誰もいない。COVID-19流行前は厚生労働省は懸命に病床数を減らそうと躍起になっていた。医療の世界では「人口当たりの病床数世界一」は、もともと「困った問題」だったのである。


COVID-19の第4波くらいが一番厳しかっただろうか?様々なマス・メディアで「なぜ日本は人口当たり世界一病床数が多いのに、COVID-19の患者さんの受け入れができないのだろう」と、冷静な分析ではなく、怒りに任せた感情で報道が流れていたのは。


例えば、100部屋ある名門ホテル。何も予約なしで、「最上クラスの部屋に泊まりたい」と言って泊めてくれるだろうか?よほどの奇跡がなければ無理だろう。すでに予約が入って、泊っている人がいるからだ。


「日本は人口当たりの病床数が世界一」というのは正しい。ただ、「人口当たりの病床数が多いから、病床に余裕がある」というのは大きな間違いだ。


「医療機関の経営」だとか、「人事」だとか、そんなことはしたくなかったので、結局恩師が命懸けで守った診療所を離れてしまった裏切り者の私だが、それでも、「経営」という視点で医療を見る、という経験ができたのは良かったと思っている。


入院病棟を抱え、その入院病棟で利益を出そうとすれば、病棟稼働率は最低でも90%は必要である。おそらくそれは急性期病院でも、療養型病院でも同様だと思う。初期・後期研修を受けた病院では、入院ベッドの稼働率が減ると電子カルテに「稼働率が低下。入院増やしてください」と、ベッドが満床になると「病床数限界、退院を勧めてください」と表示が出るようになった。民間病院の中でも、コスト面でかなり厳しい管理をするグループの病院だったので、管理職のスタッフは大変だったと思う。


閑話休題。そんなわけで、「病床数」は多いが、「空床」はわずかであるのが少なくとも、ここ30年程度の現場の実際である。それがまず1点。


もう一つはCOVID-19の入院管理は厳格な隔離管理が必要であった、という点である。当時は、COVID-19の入院管理は完全な隔離、空気感染も視野に入れた管理が必要であった(本当は今でもそうしたいのだが)。ところが、空気感染も視野に入れた感染病棟、というのは、都道府県単位で探しても、たぶん10床もないと思われる(結核病棟を除く)。未知の感染症、あるいは致死率の高い感染症に対応した病床は、大学病院レベルの病院に2,3床用意されている程度であった。ただ、それではとても、COVID-19に対応できない。なので、多くの病院は病棟を一つCOVID-19専用とすることで対応することになった。COVID-19患者さんのケアには(もちろん重症度にもよるが)、普通の患者さんのケア以上に人員を割かれるので、その病棟の許可病床数そのままをCOVID-19患者さんに使うことができない(人員的に破綻してしまう)。なので、もともとは50床あった病棟をCOVID-19用に切り替えると、15床程度しか使えない、ということになってしまう。そうすると、現実的にはもともとの病床数から減少することになる。これが2点目。


そして、COVID-19病床に切り替える前の病棟には、それまでCOVID-19でない患者さんが入院していたわけである。その患者さんをすべて転棟、あるいは退院させないとCOVID-19病棟を作ることができないわけである。それは一朝一夕にできることではないため、想定されていたベッド数でも、実際COVID-19病棟として動かすまでには時間が必要であったこと。これが3点目。


そして、日本の病床数の多くが、「急性期病床」ではなく、亜急性期~慢性期の療養病床であった、ということである。療養病床を主体とする、現在の私の勤務先のような病院は、同じ「病院」という名前であっても私が初期・後期研修を受けた「急性期病院」とは設備やスタッフの配置などは全く異なっている。なので、少なくとも第6波までは、COVID-19の入院治療は「急性期病院」でしか行えなかった。これが4点目。


このような4つの問題点があり、しかもそれはいずれも一朝一夕に改善できるものでもなかったわけである。こんなことは少し調べればわかることである。「編集手帳」や「天声人語」などのコラムは、いわばその新聞の「顔」である。天下の大新聞社がいまだにそんな感覚でいることが残念でたまらない。あの頃、「なぜ日本は人口当たり病床数世界一なのに入院できないのだ」と報道するのであれば、それと同じぐらいの熱量で、日本の病床利用率の現実、COVID-19患者さんの入院管理に関わる種々の負担、そして、「病床は多いけど、他の疾患や、療養病院の病床に存在する社会的入院の存在で実際には、COVID-19以前からギリギリで病棟を回していた事実」も伝えてほしかった、というのが現場の思いである。


第6波で病床が足りなくなったため、厚生労働省から、「『病院』は須らくCOVID-19患者さんのための部屋を用意し、自院で訪問診療している人や、自院に入院中の方は、ギリギリまで(集中治療が必要なレベルになるまで、という意味)自院で管理するように」とのお触れが出た。老人施設にも、同様に「自施設で発症した患者さんは、重症化するまでは提携している医療機関の協力の下、自施設で管理すること」とのお触れが出ている。厚生労働省は何とかそのお触れで、COVID-19専用病床の使用を減らそうとしたわけであるが、当然のことながら、ゾーニングさえままならない、しかも動ける認知症の方が、ウロウロ動かれるような病院、病棟でそんなことをすれば、「院内クラスター」が発生するのは火を見るより明らかである。


厚生労働省のそのお触れが出た後からは、私が担当する患者さんとその家族には「厚生労働省から、かくかくしかじかの指導が出たので、当院にもCOVID-19の患者さんを受け入れる病室を作らざるを得なくなりました。なので、常に「院内クラスター」のリスクの高い病院となっています。残念ながら、療養病院はどこも同じ状況で、当院だけの話ではありません。スタッフは全員徹底した感染予防策を行なっていますが、それでも「院内クラスター」は防げません。万一、院内クラスターが起き、感染された場合は、感染については行なうべきことをしっかり行ないますが、「院内クラスター」が起きたことについては、「行うべきことをしていたけど発生した」とご理解いただき、ご容赦いただければと思います」と伝えている。そして、実際に院内クラスターも発生している。


新聞報道では、高齢者施設でのクラスター発生数は記載されており、第6波よりも明らかに施設クラスターは増えている。院内クラスターの発生数については報道されていない。

おそらくこの数字を発表すれば、また世論に大混乱が起きるのが分かっているからだろう。


COVID-19を第5類感染症に格下げし、基本的にどの医療機関でも対応できるようにすればいい、そうすれば医療崩壊は防げる、という論調も多いが、まぁ、仮に5類に格下げしたとしても、結局ほとんどの医療機関で、待合室などでの院内感染が起き、感染者が急増。一般病棟に入院させて院内クラスターがあちこちで発生するのは目に見えている。


残念ながら、私たちはその世界を受け入れざるを得ない、ということだと思っている。幸いなことに、ワクチン接種とウイルスの変異でCOVID-19の重症化率が低下していることは救いではある。新聞報道でも「COVID-19は軽症だが死亡」という症例が特に高齢者で増えている、と取り上げられていた。もうこれはしょうがないことである。”Human is mortal.”(人は必ず死ぬものである)、という言葉通りのことである。ただ最後の引き金がCOVID-19だっただけ、ということである。COVID-19が流行する前も、インフルエンザがきっかけで、インフルエンザはそれほど重症ではなく、すぐに抗ウイルス薬治療も開始したけど、結局インフルエンザは治癒したが、衰弱が進んで患者さんが亡くなられた、ということはしばしばあったことであり、それと同じことなのだろうと思っている。


“Human is mortal.” お釈迦様も、3千年近く前におっしゃられたことである。

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