第73話 It‘s Time to Say Good-bye.

「医師」という仕事をしていると、診療科にもよるが、多かれ少なかれ、「命の終わり」を考えることがある。研修医時代、総合内科で修業中も、診療所や現在の病院で「何でも屋さん」をしているときも、その仕事の中で「緩和ケア」、あるいは「看取り」というのは大きなものである。現在私たちが行なっている医療はいわゆる「西洋」医学と分類されるもので、その根底には「患者さん第一主義」がある。これは、「医療提供側」VS「患者さん側」という対立軸ではなく、「患者さんの意向」>「家族の意向」ということで、患者さんの意向と家族の意向が(たまにではあるが)対立したときに、家族の意向よりも患者さんの意向を優先する、という意味での「患者さん第一主義」ということである。


「個」を大切にする西洋文化の視点に立てば、当然のことではあるが、「個」と同時に「家」を、時には「家の意向」>「個人の意向」という場合もあるアジアでは、西洋のスタイルをそのまま持ち込んでも、時に対立を生み出してしまう。数年前、プライマリ・ケア連合学会で”ACP”(Advanced Care Planning)という考え方を発表されていたセッション。某大学病院の緩和ケアチームが発表していたが、ダイレクトに西洋で行なわれているものを持ってきたので、現場で家族と本人の意向をすり合わせながら看取りを行なっていると推測される年配の先生方からは「看取りの現場って、そんなもんじゃないだろう!」と怒って席を立たれる方も多かった記憶がある。その後、厚生労働省がこのACPを「人生会議」と名付けて普及を図ったのは正解だったと思っている。


日本では、話題に「死」の話が出ると「縁起でもない」といって話を打ち切られることが多くなったように思う。特に、高齢の方で、ご自身の命の終わりが近づいている方が「死」を口にすると、家族が否定に走ることは珍しいことではない。


「本人の意向」と同等、あるいはそれ以上に「家族の意向」が強い場合もあり、また現実問題として、「亡くなられるご本人」は亡くなってしまえば医療裁判を起こすことはできないが、「残された家族」は「医療裁判を起こす」ことができるわけである。医療裁判は医療提供者側にとって極めて心的負担の大きいことであり、また、裁判官も医療や科学に通じているわけではないので、時に医療者側からすれば「理不尽」と思われる判決が出ることもあり(もちろん、その逆もないわけではないのだが)、弁護士さんなどの争点の持って行き方によって結果が「医学的正解」とは異なる形で出ることが多く、そういう点で、非常に大きな心的負担となるのである。


閑話休題。そんなわけで、私の仕事の中でも、「近々起きる『患者さんの死』について、ご家族にお話しし、心づもりをしてもらうこと」は大切な仕事の一つである。脳血管障害、認知症、老衰などで、ご自身の意思を表現できない患者さんも多いが、担癌患者さん、神経難病の患者さんなど、意思決定能力のしっかりしている人であれば、ほとんどの場合、「自分の命の終わりが近い」ということで起きる葛藤を乗り越え、『自分の死』を受容した状態で私の前にお見えになることが多い。そしてほとんどの場合、延命を目的とした治療を希望せず、疼痛緩和など、苦痛を取ることを目的とした治療を行なって、穏やかに旅立たせてほしい」と希望される。ご家族にお話を伺うと、時にご家族が異なる意見を持っていることがある。そのような時は、ご家族の希望、お話をしっかり聞いたうえで、「医学的にはご本人のおっしゃっている形で最期の時を迎えるのが、自然の流れにも沿っていることであり、本人の苦痛も一番少ない」ということをゆっくりお話しすることですり合わせを行なうことが多い。


どのような形をとるにせよ、ご家族の一番気にされていることは「いつ命の終わりを迎えるか」ということである。ただこれについては、医者になって約20年になるが、いまだに自信をもって言うことができない。死亡時期の予測ツールもあるにはあるが、ピンポイントで予測できるわけではなく、突発的なイベントで思わぬ形で旅立たれることもあれば、血圧も60台、尿も出なくなって「あと数日、あるいは今日かもしれません」と説明した方が1週間、2週間と低空飛行が続くこともあるので、本当に分からないのが正直なところである。ご本人の様子、身体の活動性などを勘案して、大まかに伝え、「最期の時は、神様がお決めになりますので、正確なことはわかりません」と伝えている。実際に予後の予測はわからなくて、私自身も「最期の時は神様が決める」と思っている。


60代の私が主治医をしている脳出血術後の患者さん。離婚して一人暮らしをされていたようだが、病気を機に家族とつながりが戻り、娘さんがお孫さんを連れてきて、初めてお孫さんの顔を見られたのだが、まるで神様がご本人とお孫さんが合う時間を作ってくださったかのように、面会後からどんどん体調が悪くなってきている。


数えでは来年で100歳の男性、私の患者さんだが、もともと、椎体の圧迫骨折後でリハビリのために当院に転院してきたのに、リハビリをするほどの体力はなく、そんなこんなでリハビリが進まない中で、誤嚥性肺炎を起こし、抗生物質で状態が改善してきた、と思ったところで、院内のCOVID-19プチクラスターにヒットし、COVID-19を発症してしまった。回診の時も元気で、熱もないのだが、食欲は低下してきている。


妻の父、80代の男性で尿路系の術後。何度も敗血症を乗り越えてきたが、最近は食事もむせるようになり、食事もとれなくなってきたと施設から連絡があった。そうこうしているうちに発熱。たぶん誤嚥性肺炎か、尿路感染症。食事もとれなくなってきており、お迎えの時かなぁ、と思っていた。施設でも「看取り」はしているとのことだったので、その方向で行こうと妻と話をしていたのだが、施設の方が「一度医療機関で診てもらっては」と考えられ、受診を調整。そんなわけで結局施設から病院に入院となった。血液検査データや発熱は改善してきていたが、そこの病院でも院内クラスターが発生し、COVID-19に感染したとのこと。


当院の院長に数十年来通院されていた方。院長が高齢で外来を引退され、私が引き継いだが、もともとお持ちだった肺がんが急速に悪化し、自宅での生活ができなくなり入院。いわゆる「悪液質」の状態で、日の単位で意識レベルが低下してきている。


施設で訪問診療中の90代の方。昨年、「喀痰で溺れている、肺炎疑い」ということで当院に入院となった。精査したが肺炎は軽度で抗生剤投与にて速やかに改善。「喀痰で溺れる」のは嚥下機能の著明な低下によるものだった。ご家族と相談し、誤嚥窒息のリスクはあるが、ご本人は施設で過ごしたい、と希望されている、ということで施設に戻られたが、最近また喀痰で溺れるようになり、経口摂取も不能となってきたとのこと。発熱はなく、純粋に嚥下困難による喉頭の喀痰貯留、という状態であるが、施設では常時吸引処置をできるスタッフがおらず、どうしようか、との相談が施設からあった。ご家族とお話しし、退院時のお話を再確認、入院は考えず、点滴もせず、嚥下困難については積極的な治療をせず旅立ちの時を迎えましょう、ということとなった。


いずれの方も、私の心の中では”It’s time to say good-bye.”だなぁ、と思っている。妻の父については、施設が医療機関の受診を調整し、入院、治療を開始、となった時点で、個人的には「あぁ、せっかくのタイミングを逃してしまった…」と思っているのだが。


手塚 治虫氏の「ブラック・ジャック」で、切れの悪くなったメスを、刀鍛冶で研ぎ師の憑二斎氏に研いでもらう、という話がある。たまたま盲目の凄腕鍼灸師で、ブラック・ジャックとは少し因縁のあった琵琶丸も、自身の鍼を研いでもらいに憑次斎氏のところを訪れていた。詳細は本編を読んでほしいが、ブラックジャックのメスを研いでいるときに、氏は「これが最後の仕事となる」とブラックジャックに伝え、ブラックジャックのメス、琵琶丸の鍼を研いだ後に心肺停止で倒れてしまう。琵琶丸はブラックジャックを引き戻し、二人で蘇生術をするが憑二斎氏は蘇生することなく永眠し、その後、琵琶丸が憑二斎氏の机の上の置き書きを見つける。そこには氏の書で「生死は医道の外にあり・・・」とあり、二人はその言葉をかみしめながら去っていく、という話である。「生死は医道の外にあり」、緩和ケアや高齢者医療をしている私には、深く心に刺さる言葉である。

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