第37話 蝉時雨に思うこと
今年は、非常に梅雨明けが早く、しかも6月下旬あたりの気温がバカみたいに高かった。却って最近の方が涼しいくらいである。その頃の新聞では、「梅雨が明けたのに『セミも鳴かない』」という記事を数回見かけたことがある。例年、蝉時雨が始まるのは7月の中旬~下旬なので、「単純に、時期が来ていないだけじゃないのかなぁ」と思っていた。
まぁ、私の予想通り、7月の下旬も近づき、ようやく蝉時雨を聞くことができたわけで、「結局、時期の問題だけやん」というのが、前述の記事の私の感想である。
蝉は孵化すると地中で数年間を過ごし、成虫となったら週の単位で生殖を行ない、その命を全うする。おそらく「成虫」の定義は「有性生殖が可能な形態」だろうと思う。寄生虫の生活環でも、寄生虫が有性生殖をする宿主を「終宿主」と定義しており、そういう点で、「有性生殖」というのは大事な指標なのだろう。
ただそれは、人間が勝手に決めたお約束であって、数年間を過ごすいわゆる「幼虫」の時期と、2週間かからずに命を終える「成虫」の姿のどちらが「セミ」の本当の姿なのだろうか?などと、蝉時雨を聞きながら考えてしまう。たぶん蝉も、いろいろな昆虫も、寄生虫もそんなことは関係なく、自分の命を生きているのだろう。
「医者」という仕事をしていると、患者さんのいろいろな悩みに直面することが多い。世俗的な悩みももちろんであるが、「自身」という存在に対する悩みを吐露される方もおられる。お釈迦様の説かれた「生老病死」という四苦、医者という仕事は現実にその問題と向かい合う仕事の一つだと感じている。「生きる」ということの苦しみ、「年老いて、これまでできていたことがどんどんできなくなっていくこと、それに伴って『自分自身の尊厳』がどんどん削られていく苦しみ」、「『病を得る』こと、しかも根治ができず、前述の「老苦」と同じく、『自分自身の尊厳』がどんどん削られていく苦しみ」、そして「『死に直面すること』『死んでいくこと』という苦しみ」。
これを本当に解決できるのは「医学」ではないと思っている。よりよく生き、よりよく死を迎えるためには、それに真っ向から対峙してきた「宗教的思考」を持ち込まざるを得ない、というか、答えはある意味、宗教的な色彩を帯びざるを得ないのだろう。そういう点で、医師は、日本独自の宗教観やキリスト教、時にはイスラム教などの教えを、概論でよいので身に着けていた方がいいと思っている。特にご年配の方を診察している私の様な医者では。
「私、いつ亡くなるのかなぁ?」「それは神さんが決めはりますわ」。私はよくこのような会話をするが、決して適当に言っているのではなく、本当に「神様がお決めになる」としか言えないのである。明日は私が死んでいるかもしれない。所行は無常であるとお釈迦様はおっしゃっているのである。
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