第38話 受験前に勝手に進路を決めるな!

日本の医療の世界では、医師の偏在が大きな問題となっている。都心と地方の問題、東日本と西日本の問題(西日本の方が東日本より医師が多い)、診療科による偏在など、様々な問題を抱えていて、解決は一筋縄ではいかない。


「都心と地方」の問題については、もともと自治医科大学が、各県より2名ないし3名の合格者を自治医科大学に進学させ、医師国家試験合格後9年間は、出身県の指示で動く、という形で地方の医療を微力ながら支えてきたし、大学によっては「地域枠」を設け、一定期間その地域で医療を行なう、という確約の下で合格させる、という制度となっているが、果たしてそれが有効に働いているか、というと疑問である。


非常に残念なことに日本では、アメリカのように医学部は大学院大学ではなく、他の学部と同様に高校卒業後すぐに入学できるので(アメリカでは、医学部は「大学院」扱いとなっており、他学部を卒業した者だけが医学部に進学できるシステムである)、高偏差値の人が入学する。ある種、医学生に求められる資質と、入学試験で問われるものが大きく乖離しているいびつな学部となっている。もちろん、医学部入学後は莫大な知識量を頭に叩き込まなければならないので、知力は当然要求されるのだが、複雑な数学の問題を解く能力よりも、患者さんの辛さに共観できる能力、身寄りのない独居老人を様々なスタッフと協力して一つのチームを支えていく体制のメンバーとして周囲と協調する能力の方がはるかに必要であるが、それは現行の入試制度で推し量ることは不可能である。とはいえ、そういう点でも、自制心、他者に共感し協力できる姿勢など、いわゆる「学力」ではない「知性」を要求されるのは確かであり、時にそれは、いわゆる「学力」に反映されることは否めない。


地域枠で入学したものの、要求される地獄のような勉強量についていけず、drop outする人もある程度存在しているそうである。もちろん、通常の入学試験で選抜されても、ついていけずに留年、あるいは留年を繰り返し退学となってしまう人もいるのだが。


今日の新聞にも載っており、以前にも報道されていたが、医学科の入学者の中に、なり手の少ない外科や産婦人科になることを条件に合格させる「外科枠」「産婦人科枠」をつくるという報道があった。臨床医の立場から見ると、極めて「愚策」と言わざるを得ない。


現在、医学科ではすべての診療科について学び、医師国家試験もすべての診療科にわたって出題されている。私は内科医であるが、内科医だからこそ「内科」以外の診療科の知識の多寡が医師としての能力を決定すると思っている。例えば、右下腹部痛と微熱を主訴に来院された患者さん。想定される病気は急性虫垂炎(外科)、急性憩室炎(内科、場合によっては外科)、急性三角垂炎(内科)、回盲部炎(内科)、回盲部リンパ節炎(内科)、上行結腸の大腸閉塞(外科)、尿管結石(泌尿器科)、卵巣嚢腫軸捻転(婦人科)/精巣捻転(泌尿器科)、急性精巣上体炎(泌尿器科)、腹部大動脈~右総腸骨動脈解離(心臓血管外科)、右腎梗塞(泌尿器科)、右鼠径ヘルニアの嵌頓(外科)、蜂窩織炎(皮膚科/内科)、帯状疱疹(皮膚科/内科)、糖尿病性ケトアシドーシス(内科)、アルコール性アシドーシス(内科)、悪性腫瘍/悪性腫瘍の破裂(複数の診療科)くらいの病気はすぐに浮かんでこなければならない(「鑑別診断」という)。見ての通り、訴えは一つでも、想起すべき疾患は複数の診療科にまたがっているのである。


最も憂慮すべきは「外科枠」「産婦人科枠」で入学した学生が、他の診療科の勉強をおざなりにしてしまうことである。例えば、他のクリニックから「右下腹部痛、虫垂炎の疑い」という形で紹介されてきた患者さんならまず外科医が呼ばれると思われるが、前医でどの程度まで評価されて「虫垂炎の疑い」とされているか分からないところである。場合によっては、上記の疾患すべてを鑑別するために検査を行わなければならない。その時に、自身の「専門診療科」以外の知識がものをいうのである。なので、私は現行の医学教育の中で、すべての医師がすべての診療科について学ぶ、ということは必要だと考えている。ゆえに「外科枠」や「産婦人科枠」などを医学部入学時に設定することには反対である。


むしろ、何故その診療科は医師が集まらないのか、その原因を評価検証し、その原因を改善させるシステム作りに力を注ぐことが一番重要なことだと思う。仕事がハードでも、それに見合うだけの「やりがい」や「収入」があれば、もともと外科も産婦人科も非常に深くて興味深い診療科であり、基本的な人気は高いはずである。問題は医療訴訟などで医師のメンタルが削られること、超ハードな勤務体系(これは人が入ることで改善されるはず)などである。特に医療訴訟については、医療行為そのものが常に不確実性を伴うものなので、訴訟そのものについて、医師にかかる負担を軽減する必要があると思う。そういった配慮をすること、それらの診療科での医師としての「生活の質」が向上すれば、志望者は増えるはずである。


あとは、初期研修終了後の自身の進路選択の段階で各診療科への定員をつけ、初期研修終了後に強制力を持って進路選択をさせることだと思う。アメリカばかりを例に出すのは心苦しいが、各診療科ごとの専門医数が規定されており、学生時代(アメリカの医学部3,4年生は日本の初期研修医と同様の仕事をしている)の成績で進路が規定されてしまう。人気のある診療科には限られた人しか進めないし、それに外れてしまえば、別の選択をせざるを得ないのである。そういう意味で、「労働環境の改善」、「初期研修終了時点での進路選択に公平な選択基準を持たせて振り分けをする」というのが最も現実的であろうと思う。医学部入学時点で進路を選択させるのは「ナンセンス」だと、医学教育を受け、医師として現場で働く者の実感としてそのように感じている。

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