2022年 7月

第18話 おや?これはどういうことだ?

私が訪問診療を行なっていた高齢のご夫婦。ご主人は特に医療を受けず、奥さんの介護をされており、奥さんはひどい認知症だが、ある程度のADLのある方だった。身近に頼れる親族はいないとのことだった。


訪問診療と言っても、私の前任者からの引継ぎでは、基本的に「こんにちは訪問診療」で、訪問して、ご様子を確認して、特記すべきことがなければ診察終了。訪問診療を行なっている方に例年行なっているインフルエンザの予防注射などを行なう、という形での訪問診療だった。


前任者から引き継いで、1年半ほど経ったが、最近はご主人の認知症も進んできて、奥さんの介護も、自分自身のケアもできなくなっていた。なので、ご夫婦二人での自宅生活はもう限界、と奥さんのケアマネージャー(ご主人は要介護認定も受けていないので、ケアマネージャーもいない)が判断され、奥様は今後の調整のため、いったん当院に入院、ご主人は、奥さんのケアマネージャーさんが調整に入られ、私の外来にご主人を連れてきてもらい、介護保険の主治医意見書を作成し、介護保険の利用を開始、奥さんのケアマネージャーさんが正式にご主人のケアマネージャーとなり、今後の調整を行う事となった。


そんなわけで、ご主人に一度診察に来てもらい、お身体の診察、長谷川式認知症スケールと一般的な血液検査を行い、主治医意見書を作成した。血液データは検査会社に外注で提出し、主治医意見書については、あまり血液検査のデータが必要なことはないので、診察、日常の行動のレベル、長谷川式の点数を見て、主治医意見書をすぐに作成した。


数日後、血液検査の結果が返ってきた。結果を見て「ありゃ?どうしよう。」と少し考え込んでしまった。というのは、「梅毒」の検査が陽性だったからである。奥さんは入院時に梅毒の検査をしているが、陰性だった。そういう点でも、「ありゃ?どうしよう」という事である。


梅毒の診断は、2つの検査の結果を総合して判断する。一つは、梅毒の病原体Trepnema pallidumに対する抗体検査(TPHA)である。これは、一度梅毒に罹患すると、基本的にはずっと陽性のままである。もう一つの検査は、細胞膜にあるリン脂質に対する抗体の検査(ガラス板法、STS、RPR法など)であり、これは仮に梅毒に感染していた場合には、梅毒の活動性を反映する検査である。梅毒が治癒すると陰性化する。ただし、リン脂質に対する抗体は梅毒だけでなく、SLEや抗リン脂質抗体症候群など、梅毒以外の病気でも上昇することが知られている。なので、SLEや抗リン脂質抗体症候群をお持ちの方で、TPHA(-)、RPR(+)の方は「生物学的偽陽性」と名前がついており、SLEについては、「生物学的偽陽性」は診断基準の一つに入っている。


たくさんの高齢者の方の入院を見ており、入院時にはスクリーニング検査として、HBV,HCV、梅毒の検査をすることが多く、しばしば、TPHA(+)、RPR(-)の方が見つかる。これは梅毒既感染で治癒している状態を意味している。実際に「梅毒」と診断されて治療を受けたのか、ご自身が梅毒にかかっていることを知らず、他の病気でたまたま抗生剤を内服し、それで本人の知らぬ間に治癒したのか、それはわからない(もちろん本人に聞いても分からないことがほとんど)。


梅毒と診断するには、TPHA(+)、RPR(+)であることを確認するのだが、性的活動性の高い年齢層、あるいは特徴的な症状を有しておられ、この結果であれば「梅毒」と診断づけるのは容易なのだが、悩ましいのは、治癒した梅毒の既往があり、それとは別に生物学的偽陽性でRPR陽性になっている方は、梅毒に罹患中ではないにもかかわらず、TPHA(+)、RPR(+)となってしまう事である。


これまでに数人、TPHA(+)、RPR(+)の高齢の方を見たことがあるが、皆さん、80代半ばの女性であった。ご夫婦で定期通院されている方も何人かおられ、定期の採血データ確認のための採血で見つかることが多かった。もちろんご主人にも同じ検査をしているのだが、ご主人はTPHA(-)と梅毒罹患歴はない方であったと記憶している。


これは結果説明にも苦労した。先にご主人を診察し、診察室から少し離れたとことにご主人をご案内して、ご主人に聞こえないようにしていろいろ確認をする。お話を伺うが皆さん、「男性は主人しか知りません」と言われるのだが、それではご主人がTPHA(-)で奥さんがTPHA(+)というのは理解に苦しむ。皆さん、特に輸血歴はないとのことだった。まぁ、そこはあまり深く掘り下げることはしないようにした。


皆さん、特に体調不良などはなく、普通の高血圧などで通院されている方なので、身体所見からも絞りにくい。たぶん、過去の感染+生物学的偽陽性なんだろうなぁ、と思いながら、梅毒の治療としてペニシリンを4週間内服してもらい、その後数か月時間をおいて、もう一度TPHA,RPRを確認する。外来の方は、半年に1回くらいの感覚で血液検査をしていたので、そのリズムに合わせて採血をした。その数人の方は、再検査でもTPHA(+)、RPR(+)だったので、過去の感染+生物学的偽陽性だったのだろうと判断した。「入院したり、手術を受けたりするときに、梅毒のことが言われるかもしれないが、『以前にもそういわれたことがあり、念のために梅毒の治療もしてもらいました』と伝えてください」と言って、いったん終了としていた。


今回は、男性の方で、TPHA(+)、RPR(2+)で帰ってきているので、やはり梅毒の可能性は高いのだろうと思った。患者さんに受診してもらい、お話を伺うが、患者さんは易怒性の強い認知症の方であり、話を聞いても怒り口調で返してこられるので、何を言っているのかよくわからない。ただ、「女遊びくらいしたわ!」と言っていたので、やはり怪しいようである。


高齢の男性なので、もし梅毒だとしたら、感染からは数十年たっていると思われる。認知症もあるし、本来なら「神経梅毒」を鑑別するために腰椎穿刺、髄液の検査が必要なのだが、当院には腰椎穿刺の穿刺針がないので如何ともし難い。頼れる親族も近くにはおらず、今回の受診もケアマネージャーさんがご自身の時間を割いて、本来の仕事ではないことをボランティアでしていただいているので、高次医療機関で検査、というのもなかなか難しい。と、この方の置かれている状況を考えると、神経梅毒のことも心に置きながら、自宅で抗生剤の内服をするのが最もよいだろうと判断した。ペニシリン系抗生物質を28日分、抗生剤を飲むと腸内細菌叢が崩れて下痢をするので、腸内細菌叢の悪化を防ぐために乳酸菌製剤も28日分処方し、その後時間をおいて再検査することとした。ご本人にも「薬はしっかり飲み切ってくださいね。また半年後くらいに検査しましょうね」と声をかけておいたが、ご本人が覚えいているかどうかはわからない。


やはり一番の心配は、毎日きっちり薬を飲んでくれるかどうか、である。


心配だが、如何ともしがたいなぁ、と思った次第である。

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