第9話 ふと漏らした一言で

諸般の事情で、土曜日は午前の外来が定期的に担当医が私一人になる。小さな病院とはいえ、外来担当医が一人だけ、というのもなかなか厳しい。普段は午前の診察は二人体制で行なっているので、極端なことを言えば、仕事が2倍になる。しかも、土曜日は午後にコロナワクチン外来を行なっており、その担当医も私である。私の性格として、後ろに予定が入っている、いわゆる「ケツカッチン」の状態はすごくストレスを感じる。なので、土曜日は少し気が重い。


今日も少し早めに朝の外来を始めたが、患者さんとの診察で、患者さんの口から「大切な言葉」が出てきた。長く主治医として、信頼関係を築いていくときには、ふとした一言でも、そこにすごく大きな意味を持っていることがある。なので、患者さんからそのような言葉が出た場合には、状況や会話の流れも含め、詳しくカルテに記録するようにしている。そうすると必然的にカルテを書く分量は増え、時間もかかることになる。そんなわけで、カルテが山のように積みあがっているのに、15分で2名しか診察できていなかった。でもしょうがない。大切な言葉はしっかり捕まえていないとすぐに逃げて行ってしまうからである。


そんなわけで、遅れた分も取り返そうと頑張って、でも手を抜かずに頑張っていた。


そして、「3日前から胃の調子が悪く、吐き気が続く」という訴えの患者さんが診察に入ってきた。当初は消化器に感染するウイルスによるウイルス性胃腸炎かなぁ?なんて考えていたが、特に下痢はしていないとのことだった。


「吐き気」というのは実は曲者で、どのような病気でも、たとえストレスや、他人の吐物を見ただけでも嘔気が起きるので、「吐き気」だけでは病気を絞りこむことはできない。


何だろうなぁ、何か胃が荒れたりしているのかなぁ?胃癌とかが隠れてる?などと考えながら、患者さんに「胃の粘膜を保護する薬と、吐き気を和らげる薬を出すので、数日様子を見てください」と説明し、処方箋を書き始めた。


患者さんは、「わかりました」とおっしゃり、そのあとに、「水分を取っているんですけど、尿がなんだか濃いのですよね」と呟かれた。


そのつぶやきを聞いた瞬間に、頭の中をいくつかの思い出が駆け抜け、取っ散らかっていた頭が整理された(思い出の内容については拙文の「保谷君が地域の診療所で頑張っている話」の中の、「濃縮尿は2Lも出ない」という話と、「インフルエンザの大流行期に高熱で「インフルエンザ」だと思って受診された、命にかかわる重症肝炎」の話を参考にしてください)。


患者さんの顔をもう一度よく見ると、なんとなく目が黄色い。患者さんに、「すみませんが、もう一度目を見せてもらえますか?」とお願いして結膜を観察する。なんとなく結構黄色い感じがする。肝炎の時には、心窩部痛が出てもおかしくはなく、食欲はなくなり吐き気も出てくる。患者さんは「急性肝炎」の可能性が高いのではないかと思った。


患者さんに、「先程、『おしっこが濃くなった』とおっしゃられましたが、その言葉で眼を見せてもらうと黄色っぽいように見えます。急性肝炎の時は胃のあたりに不快感があり、むかむかして食欲がなくなることがしばしばです。血液検査を確認させてもらえませんか」とお願いし、院内緊急項目で採血を行なった。


診察待ち患者さんが残り一人のところで血液検査の結果が出そろった。看護師さんからは「先生、患者さんのデータ、悪いです」とのこと。それなら先に、待っている定期受診の人を診てしまおうと思い診察。その方に薬を処方した後で、その患者さんの血液検査を確認した。白血球は正常、血小板は12万と少なめ。細菌感染症で上昇するCRPは基準値内。黄疸の原因となるビリルビンは7.6(正常は1.0未満)、肝細胞の破壊の程度を示すAST,ALTは、ASTはほぼ1000近く、ALTは1800近く(正常はどちらも上限が40程度)、細胞の新陳代謝や破壊の程度を示すLDHは550、胆汁の流れ道にトラブルがあると上昇するγ―GTPは360と、明らかに肝酵素の上昇が目立ち、「急性肝炎」として矛盾なく、しかもかなり重症のデータだった。


患者さんを呼び込み、結果説明。「今から大きな病院を紹介するので、この足で受診してください」と伝えると、「えっ?これからすぐ、ですか?」と患者さんから驚きの声。患者さんも、まさかそんな重症だとは思っていなかった様子だった。「はい、これからすぐです。この数字を見ると、緊急で入院が必要だと思います」と伝えると「そんなに悪かったなんて、思いもしませんでした」とのこと。私もあの一言がなければ気づかなかった。


時間は土曜日の午後に入っていた。この時間の転院調整はとても時間がかかる。すぐに紹介状を作成し、この近隣で、患者さんの受診歴がある高次医療機関を聞いて、病診連携室に調整を依頼した。しかし肝炎が重症で、患者さんが受診歴のある総合病院からは「それは大学病院で診てもらってください」との断り+アドバイスがあり、大学病院に調整。非常に遠い電話で聞こえにくい声を何とか聞き取って病状説明し、大学病院が受け入れてくださった。


今回も危ないところで、単純に胃薬と吐き気止めを処方して帰していたら、患者さんは命を落としていたかもしれない。患者さんの「尿が濃い」の一言に気づけたのは、過去の経験があればこそだ、と思った。この患者さんについては、ぼそっとしたつぶやきを聞き逃さなかったことと、これまでの私の経験があったから見逃さずに済んだのだ、と思った。亀の甲より年の劫、とはよく言ったものである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る