第7話 寄り添えている?(生老病死の四苦と直面して)

今日は訪問診療の日。朝の始業前に入院患者さんの回診、指示出し、カルテ記載を終わらせ、一応、後顧の憂いなく訪問診療に出発する。施設や個人のお宅を回っていくのだが、今日もいろいろな出来事があった。


とあるお宅では、市役所の職員さんが、私たちの訪問診療を待っていた。患者さんのご様子は安定していたので、いつも通り、胸部の聴診を行ない、右に胸水が貯留しているので、打診で胸水のレベルを確認。いつもよりやや胸水のレベルは低くなっていた。状態はまずまず安定していると考え、定期処方薬の処方箋を書いた。


すると、市役所の方は私に「先生はいつもそのような形で診察をしているのですか?」と問うて来られる。もちろんバイタルサインは看護師さんが確認している。「はい。まず最初に患者さんのお話を聞いて、大きな変化がなければバイタルサインの確認、ぱっと見の様子、胸部聴診を行ないます。この方は右に胸水が貯まっているので、どの程度貯留しているのかも打診で確認しています。別に訴えがあれば、例えば腹痛があれば腹部診察、関節痛があれば関節の診察を行なったりしています」と答えた。「それは病院に受診しなくてもいいのですか?」「この方の一番の問題は『受診ができない』という事です。受診をサポートしてくれる人がいません。なので訪問診療で医療を継続しなければならないのです」と答えた。どうも役所は、この人の訪問診療は「不要」で、通院に変更させることを目的に訪問診療の見学に来られたような印象を受けた。う~ん、この方、通院する手立てがないので訪問診療とせざるを得ず、本当なら胸水貯留については胸水穿刺をして性状を評価したり(もちろん訪問診療でもできないことはないのだが、検査のリスクを考えると、やはり病院で行ないたい)、胸部CTなども確認したいと当方も思っているのだが…。不要な訪問診療をしていると疑われているのでは、と思うとあまり気持ちの良いものではない。


別の患者さん、昼夜が逆転しており、私たちが訪問診療に行くときは深く眠っており、「生きている?」と心配するほど反応が悪いが、施設のスタッフに聞くと、夜間はウロウロしているとのこと。私が入院中に見ていた時は、昼も夜もなくほとんど身動きされなかった方なので、動ける(もちろん転倒のリスクは高い)ようになったことを喜ぶべきか、昼夜逆転していることをどうにかすべきか、これも悩ましいところであった。往々にして、高齢者の昼夜逆転に薬を処方しても、昼夜逆転は改善せず、昼間はもっと深く、夜はせん妄になる、という事が多いのだが、やはりウロウロして転倒するのは危ない。高齢の方なので少量だが薬を追加した。効いてくれればよいのだが。


また別のお宅へ向かう。親子二代で訪問診療をしていた方。お母様は90代、息子さんは70代の方である。お母様は自宅での生活が困難となり施設に入所となった。今日は息子さんの訪問診療。70代の方だが、大病をいくつも乗り越えてこられた。最近、以前手術したところの具合が悪くなっているようで、1週間ほど前に検査入院をされたとのこと。その結果も含め、お話を伺う。


「先生、検査入院の結果は、やはり以前の手術の痕が悪くなっていて、もう一度手術せなあかんことになりました。手術までの間に、毎週病院に行って、手術前の検査を一つ一つしていくことになりました。先生、何か私、疲れてしまいました。病院に行っても何が良くなるわけでもない。説明されることは厳しいことばかりですし、病院も遠いです。病院に行くという身体のしんどさもありますが、良くはならないこの身体のために通院や入院を続けることに、心が疲れてしまいました。

 娘は病院にいつも付き添ってくれていて、私が元気のなさそうな表情をしていると、『お父さん、前向きにならな』と励ましてくれるのですが、その励ましの言葉を受け取るのもしんどくて、でも娘の気持ちもわかるから、今の疲れている私の心の内を話すこともできないのです。先生にならお伝え出来ます。本当に心が疲れてしまいました。でも、娘のことを考えると、治療を続けなければいけません。本当につらいのです」と。


私にはその思いが痛いほどわかって、返す言葉もない。医学的に「難治性の身体疾患と治療による精神的ストレスに起因する抑うつ状態」と病名をつけることは簡単だが、そんなことは全く意味がないと感じる。目の前にいる、身体も心も疲れてしまっている方に、私は何ができるのか??


私は、仏教の「生老病死」の四苦の話をした。生きている、という苦しみ、年老いていく、という苦しみ、病を得るという苦しみ、そして私たちすべてが「死」から逃れられない「死」という苦しみはだれもが避けられないものであること。誰もがこれらの苦しみを抱えて生きていくことなどをお話しした。「お釈迦さまは『すべての執着から離れれば、この四苦を乗り越えることができる』と説かれていますが、そんなん無理ですよね。でも、『何かをしなければならない』という思いから離れることはできるかと思います。ままならない人生、少し、あるがままを受け入れてみてはどうかと思います。それと、お話しすると気持ちは楽になります。私でよければ、心に思うことを遠慮なくお話しください」とお話しした。


心の内をお話しされて、少し気が楽になられたのだろう。「先生、本当にありがとうございます」と感謝してくださった。


この方との診察時間は30分以上。午前中に15~16人の患者さんを訪問診療するので、このペースでは8時間以上かかってしまう。なので全員に同じことをできるわけではないが、必要な時には、時間を割いてお話を聞き、お話をする必要がある。


偉いがん治療の先生や、緩和ケアの先生、訪問診療の先生たちが、ご自身が病を得て、ご自身の寿命の終わりを自覚されたときに、皆さん「私はこれまで、患者さんのことを全くわかっていなかった」とおっしゃられる。私もわかったつもりになって、いつの間にか傲慢になっていないだろうか?


そんなことを考えながら、日々仕事をしている。わかる人が見れば、私の仕事ぶりは片腹痛いのではないか、と恥ずかしくなる。


(ちなみに、「片腹痛い」という言葉はもともと「傍ら痛い(かたはらいたい)」という言葉からきており、面白い、という意味ではなく、傍で見ていて危なっかしくてハラハラする、というのが本当の意味である。余談です)

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