龍の啼く詩

朱雀辰彦

第1話 記憶から来た男

 いつ頃からこの砂漠を進んでいるのだろうか。


 月が4度周り、上に登った時、既に食料は尽きて進む余力もなかった。その日の昼には、カラカラの暑さの中で、遠くにはオアシスらしき木々と、手前に巨大な城壁が見えた。あそこまで行けばなんとかなるかもしれない。しかしそもそも私はなぜ、この砂漠を歩いているのだろうか?真夜中になり横たわりながら私は考えた。自分がどこから来たのか、自分が何者なのか、そしてどこへ行くのか。何も分からないまま、このまま朽ち果てて行くのだろうか…とさえ思った。


 翌日の正午頃、巨大な城壁の近くまで来た私は、疲労困憊しているのを忘れてその中に吸い込まれるように入っていった。衛兵らしき2人の男に自然と目が行く。顔つきは色黒でやや小さめの帽子をかぶり、塗り固めた口ひげを生やし、大きめの太刀を手にしていた。いわゆる柳葉刀である。私は衛兵に声をかけようとしたが、そのまま、意識はぷつりと途切れた。


 私は、白い土壁の部屋で目を覚ました。ベッドが敷かれておりその上に寝かされていたのだ。私が背負っていた旅の道具は、ベッドの脇に置かれていた。ゆっくりと起き上がり、ベッドから抜け出そうとする。

「…お若いの、気がついたのだね?」

 その声に顔を向けると、口髭を固め、顎髭を生やした老人が椅子に座っていた。白い服を着て、体は老人であるが矍鑠としている。年の頃60代半ばといったところだろうか。老人は持っている蓋碗がいわんから、茶色い液体を黙ってティーカップに注ぎ、それを私の元へ出す。私はその場に座ってティーカップに口をつけた。穏やかな温度、そして爽やかな茶の香りが鼻を抜けていった。初めて飲む種類の味と香りである。

「国の入り口で倒れてから、3日間寝ていたのだよ」

 その老人の言葉に、そんなに、と私は思わず呟いていた。記憶は途切れたままである。私はとりあえず、老人に礼を言った。老人はただ首を振るだけだった。

「ところで、どうしてこの果てもない砂漠を旅していたのだね」

 老人は私を尋問するかのように少しきつい口調で言った。

「それが…記憶がほとんどないんです。舟に乗っていた記憶はあるんですが」

 そう言ってから、砂漠にいるのに舟とは、私もふざけたことを言うものだと思った。しかしそれくらいしか記憶がないのだ。老人は、何かを察したかのようにゆっくりと諦めたような息を吐き、立ち上がると少し歩いてパンのたくさん入った籠を持ってきた。しばらく何も食べていなかった私は、そのパンを手づかみで全て平らげてしまった。はあ、と私は大きなため息をつく。老人はにやりと笑った。胃の奥に満ち足りた感触があり、私はもう一度大きなため息をついて、ゆっくりと息を吐いた。

「悪いが、持ち物を改めさせてもらったよ」

「はあ…」

「何かとこの国も物騒でな、素性も分からん人間をほったらかしにもできんのだ」

 というと、私は体よく追い出されるのだろうか。身一つで、この砂漠に。それだけは勘弁してほしい。野垂れ死にを待つばかりではないか。

「しばらくこの国に置かせていただくことはできませんか。何でもします」

「すまぬが、それは私が最終的に決めることではない。ただ、お前さんが敵国の者ではなさそうだということは分かったし、人に危害を加えるような人間でもなさそうだ、とは伝えておこう」

 老人はそう言って立ち上がり、奥の扉から出ていった。私はカップの少し冷めたお茶を一口飲むと、手荷物を改めた。特に取られたものはないようだ。私は外に出ようと奥の扉に手をかけたが、扉は開かなかった。鍵がかかっているのだ。私ははっとした。軟禁された、と思った。しかし、と後ろを見た。白壁の部屋には窓が一つ、そしてもう一つ扉があり、開くと小さな便器が一つあった。窓は小さく外に出ることは難しそうである。とりあえず開けてみると、遠くには山々がそびえ、手前には小さな家がぽつりぽつり並んでおり、遠くに高い門が見える。ここは城なのだろうか。私は何も考えず、そのまま横になった。どのくらい時間が経ったことだろうか、日が落ちると同時に私は眠りに落ちた。


 砂漠を隔てた衛星オアシス国家であるザナドゥの辺境の地、敦煌に日が昇る。かつて東西の人々が交わるところとして栄えたこの街は、様々な国の侵攻を繰り返した結果、様々な民族の住む都市となった。人々はアジア系とヨーロッパ系が混ざったような顔で、宗教ごとに小さなコミュニティを作り暮らしている。若年層は少なく、いずれはこの街も忘れられ、砂漠のチリに消えるだろうと悲観する者も多い。

 さて、私は朝日とともに目覚めた。鳥の鳴き声や遠くで鐘をついている音も聞こえる。私は身支度を済ませて扉に手をかけると、がちゃりという音がし、鍵が開いた。思わず私は「あっ」と声を上げた。目の前に昨日の老人が立っていたからだ。老人は何かで固めた口ひげをさすり、微笑んで「おはよう」とだけ言った。

「昨日はすまなかった。判断がつかんから、とりあえずあの部屋の中に居てもらったのだよ」

「ははあ…」

「とりあえず、記憶が戻るまでここに住んでも良いとお許しが出た」

 私はほっとした。これでとりあえず、砂漠で野垂れ死にをする可能性は数割かなくなったわけだ。元々記憶がないのだから、ここで普通の生活をして死ぬのもよいかもしれない。しかしその記憶も、以前のようなまったく思い出せないというわけではなく、様々なイメージが浮かんでは消えていた。

「住むなら、お前さんの名前を教えてもらわんといかんな」

 しかし、私は名前すら覚えていなかった。私は自身の荷物が入っていた袋から、中にはいっているものを出してみる。何か、私の名前がわかるものはないか、と探してみた。くしゃくしゃになった紙が一枚、袋の奥底にある。私は取り出し広げてみて、私は首を傾げた。「」とあった。意味はよくわからない。名前のようには思えなかった。

「では、ハクガ殿と呼ぼう」

 その紙を見た老人はそう呟いた。私は面倒だったので、何も言わずに頷いた。老人はサミルと名乗り、彼の案内で少し歩くと小さな店が立ち並び、細長いテーブルに人だかりができていた。老若男女、みなそこで食事をしている。朝食を出す店のようだった。男は口ひげを生やした者が半分ぐらい、女性は民族衣装だろうか、ほぼ全員が同じような変わった服装をしていた。みな私が珍しいのだろう、目を見開いて私の顔をじろじろと覗く者、見ないふりをしながら聞き耳はしっかり立てている者など様々だった。サミル老人が店主に何事か告げると、私の前に平べったいパンと、茶褐色の液体が出てきた。液体は昨日飲んだものと同じ、お茶だろう。正面のパンにかぶりつくと、中にひき肉が入っていた。独特の匂いを発しているが、食べられないことはない。サミル老人は同じパンを食べ終えると、懐からパイプを出して火をつけ、うまそうに煙を吸っていた。私も腹が減っていたのですぐ腹に収めた。

「しかし、ハクガ殿。お前さんは何が出来るんだね」

「別に…一般的な労働は出来ると思いますが…」

「そりゃ、そうだろうが…何か、アピールできるものはないのかね」

が吹けるくらいですかね」

 サミル老人は目を見開いた。「本当かね」と念を押すので、私は頷いた。なぜか昨日見た夢の中で、頭の中に浮かんだイメージの中に横笛があったのである。竹で出来た笛だ。夢ので私は不思議な服を着て、それを吹いていた。あまりにもサミル老人が年を押すので、私はもし吹けなかったらどうしよう、と恐怖を感じて「いや、夢で見たんです」と正直に言った。サミル老人は思わず咳き込み、それからひどく落胆したようだったが、

「まあ、いい。一度聞いてみるかな」


 私は朝食を食べ終えると、また老人の道案内で昨日と同じ建物に入った。私が思ったとおりこの建物は城のようだった。この沙州という街の中心部というわけだ。しかし、オアシスとはいえこのみすぼらしさは…。歩いている最中、サミル老人は「寂しい場所だろう」と繰り返し言うので、私はその都度「いえ、別に」とか「活気があるじゃないですか」と言ってみたものの、はっきり言えば「寂しい」がよく似合う街だった。そしてこの城すら文字通り「砂上の楼閣」だった。「古城」という名前すら侘しさを感じられよう。サミル老人は早足で歩く。随分と早いので、油断していると置いていかれてしまう。老人は昨日私が一日を過ごした部屋に入り、私に中にはいるよう促した。私は、手荷物の中に横笛が入っているのを思い出していた。袋の中に手を入れると、果たして木でできた筒が入っている。触ると滑らかで、随分と使い込んだ印象を受けた。かかっている紐をほどき、2つあるうち大きめの横笛を取り出す。唇を当てる部分の他に、穴が7つ開いていた。横笛横笛というが、これはいわゆる「龍笛りゅうてき」というものである。私は唇を当てる歌口の部分を軽く服でこすってから、すぐ唇に当てる。何を吹こうか迷ったけれど、とりあえず沙陀調さだちょう「音取ねとり」を吹いた。しょう篳篥ひちりきがないのでゆっくりと吹いてみる。不思議なことに、歌口を唇に当てただけで指の動かし方や息の入れ方をすぐに思い出せた。吹き終わると、サミル老人は口を開けたまましばらく動かなかったが、やがて唇のあたりに手を当てて震えながら、

「古の物が…」

 と、妙なことを言った。

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