子育て記録:3 新米落第パパ、兎の着ぐるみに手招きされてついて行く
AM0:02
四か月のありすはいつもなのか、今日は特別なのかというくらいに「なんなんだよ。本当に!」苛立って舌打ちを漏らしたくなるくらいに泣き止まない。時刻は時計の針もてっぺんを指すド深夜な訳で。たまったものではない。胃がキリキリと疼き出す。若い頃にやった胃潰瘍と同じ痛みと吐き気。
本当に。
「あんのくっっっっそ女ァああ!」
低い口調で元凶を思い出す。しかし、思い出したくもない顔だ。声も何もかも、消しゴムで消して、修正テープを引いて何もかもと根底から記憶を葬り去りたい女だ。
「あァァああァアア‼」
「っちょ! ありすぅうう‼」
アパートから離れたところに商店街があった。時間も時間で
何があって、どれくらいの長さなのかも分からない商店街の中を吞兵衛たちを避けて進んで行った。出口に着いたら、また、折り返して歩いていればありすも寝てくれて、そのままアパートに帰れるはずだと思っている。願わくば。警官に会いませんように、って思っていた。
AM0:28
歩けど歩けど。出口が見えない。
そして。胸の抱っこ紐の中のありすは、啼くことを止めたもののお目々がぱっちりだ。そろそろ、ありすのオムツを見なきゃいけない。コンビニのトイレか、どこかに一旦、入店をさせてもらって交換し終えたら、お詫び程度に何かを購入をしてやればいいだろう。
「しっかし」
この商店街のどこに飲み屋があるんだ? ってくらいに辺りはシャッターが閉まっている。申し訳ない程度に点けられた明かりに蛾が飛び回るのが見える。今年の蛾も体格はまん丸く、羽根を大きく広げれば、幼児の顔並みに大きい。
「開いてる店はどこにあるんだ!」
俺は焦っている。歩いて行けば、何かお店があると信じ込んでいたからだ。初めて足を踏み入れた商店街の間取りなんかも分からないってのに、ずんずんとありすを抱っこ紐で胸の中に抱いたまま能天気に、ここまで歩き続けてこんな有様だ。引き返す? 急いでアパートに帰ってありすのオムツの中を見て、息苦しさしかないあの女が待っていた部屋に二人きりなるってのか? キツい。二人きりがキツいってんじゃなく。
あの女の影が怖い。
至るところで俺は思い出す。視えてしまう。
幻影と、そこに在ったあの女の生活光景が目に浮かぶんだ。
「ちっきしょう」
引っ越そう。そうだ、引っ越そう。明日にでも不動産屋に行こう。いや。待て。待て待て。四か月のありすを抱きかかえて物件を見に行く? 四か月のありすの世話をしながら引っ越し準備をする? 保育園も探さなければいけないから市役所に行って。ああ。市役所に行くなら離婚届も提出をしょうか。戻って来る気なんかないはずだろうし、出戻って来ても「お前の籍なんかあるといつから思ってた?」って突っぱねてやるとは当然だ。そこで何を言われようが。「終わったことだ」と言い捨ててやろう。ただ。ただだ。
どんな顔で言ってやればいいのか。
AM0:30
「こんな夜跨いだ時間帯に赤ん坊を連れ出して、こんな商店街の道のど真ん中で、呆けて何をしてるってんだい」
「は?」
突然。俺の横から声が聞こえた。
思いもしなかったことに俺の反応が鈍くなっていて、
「ったく。ついておいで。ぼんくら親父」
横にあった気配が前を歩いていた。
月明りの下に照らし出される影は異形と言わざるを得ない。
立ち竦んでしまった俺に気が付いたのか、ソレが振り返り手招きをする。決して幻影なんかではない現実に起こっている事態だ。
「ぼんくらァ! こっちだよ! ついて来なァ!」
ピンクの兎の着ぐるみが、目の前で俺を罵ったかと思えば手招いて呼んでいる。声は酒焼けなのかとても低いが、聞きやすい声だ。女の声で。年齢は恐らく、50過ぎだろう。
「赤ん坊が可哀想だっ
天の助けと捉えるべきか。
それとも。
悪魔の囁き。ぼったくり店に
行くも地獄だが、行かないってのも、また地獄ってもんだ。どこに開店していて子どもも一緒に入店なんかが出来る店舗があるかも分からない以上は、この兎の着ぐるみに行き先を託すしかない。トイレに行かなければならないのだから。
「ちょっと。ぼんくらぼんくらって、初対面に言う言葉ですか?」
小走りに俺はついて行った。
「黙ってついて来な。男が細かいことでネチネチと言ってくんじゃないよ。よくも結婚して子どもなんか儲けたもんだ。やもみたいだね。苛ってするよ」
「やも????」
「あたしの父親だった男の名前だよ」
「比べないでもらえません? どういった父親かなんてのは分からないが聞いてていい気はしねぇし、ここにいない人間の悪口を赤の他人なんかにぺらぺらと言うのは性格が悪いと思うね」
「同じ穴の狢だろう? がたがたとぬかすんじゃないよ」
ピンクの兎の着ぐるみは俺の腹までの身長だ。およそ154センチってところか。耳の先端が俺の顎にがつがつと刺さるように当たる。ふわふわもこもこに反して先端は棘のように痛いったらない。
「そんで兎さんは。この貉をどこに連れて行こうってんだ?」
「兎さんって。あたしは守田とま。行き先は、そのやもの店であたしのバイト先さ」
腕の中にあるエコバックは中身が一杯で腕に食い込んでいた。俺の視線に気がついたのか、とまがエコバックを持ち上げて理由を言った。
「足りないものの買い出しを頼まれたのさ」
「え。開いてるスーパーとかどこに……」と俺は驚いてしまう。この商店街に足を踏み入れから、そんな場所なんか見てなんかいないぞ? 俺が見落としたのか? それとも、俺を騙そうとしているのか? 考えたら埒が明かない。こんな胡散臭い兎について行ってもいいものか。しかし。ありすのオムツは取り替えなけれならない。早急にだ。かなりの時間だ蒸れて赤くなっているかもしれない。携帯でググって得た薄っぺらな初動が必要とされる知識だ。
「あとどれくらい歩くんだ?」
「
「俺は井上雪理。ぼんくらなんて呼ばないでくれないか? 不愉快極まりないね」
「ははは! 男やもめが偉そうに」
兎の被り物の中から楽しそうな笑い声と罵りに遭う。
確かに俺は【男やもめ】で偉そうな立場でものを言い返すことすら烏滸がましいのかもしれないが、
「着ぐるみを着た卑怯者に、言われる
顔の見えないとまに侮辱されることが不愉快なんだ。言うなら言うなりに態度があるんじゃないのか相手に対しての礼儀なりにも。正面切って顔を見合わせるべきだ。そうじゃなきゃフェアじゃない。そう思わないか? 理生。
俺たちも。いや、俺も――顔を合わせるべきだった。
「いい年した大人が泣くんじゃないよ。見っともないったらありゃしない!」
AM0:35
「ここがやもの店さ」
「店?」
「さぁ。お入りくださいませ、お客様」
「いや。ちょっと、待て」
俺はとまの言葉を遮るように言い返した。明らかにおかしい場所を指差して、ここがお店です、と言ったからだ。
「ここが、お店?」
「ぼんくらには見えないのか?」
人をからかうような口調でとまがほくそくむような顔さえ脳裏に浮かぶ。知らない彼女の顔はあの女にすり替わり、口端を吊り上げてほくそくんでいる。被害妄想と、嫌なことをする行為自体が、あの女の仕業かのように思えてしまうのは仕方がないだろう。視えない顔の身代わりにそう思えて見えた訳だ。
「壁にドアがあるのは見えるが」
商店街の奥の出口にあたる箇所。薄暗くシャッターが閉まる一帯の間にあるどこかの壁にあるドア。看板なんかはない。どこかの店の店のドアではないもののように思えるノブをとまの手が握り、
「腹が減っては」
ゆっくりと回して開けた。
ごくり……!
「怒りも擦り減って疲れちまうよ」
開かれた中は想像を絶するほどに広く唖然となってしまう。違法建築なのか、それとも、そう思わせる間取りの造りなのか。天井は高く横には、沢山の額縁の絵が所狭しと飾られている。人物画に風景画と目を楽しませる。高い天井からは月明りが降り注いでいた。
「さぁ。ついておいで、やもを合わせてあげるよ」
「あの!」
「? なんだい」
「トイレをお借りしても?」
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