子育て記録:2 新米落第パパ、途方に暮れて夜道を歩き出す
PM21:30
ある日、突然となんの前ぶりもないまま妻が蒸発をした。四か月の娘を残して。そうなる原因は、恐らく世間では【夫】が悪いに決まっている。という認識になるのだろう。そして、悪者にされた夫たちにだって少なからず言い分はある。
俺たちだって一生懸命。汗水を垂らして働いているのは誰でもなく家庭のためなのだと。
しかし。そんな言い分は【理屈】であって当然のことを【正論】をかざして言うなとされる。結果としてそれらは【DV行為】とされる。
世論は【妻】が正義だ。
「ならだ! もっと、こう! ああ、もぅ!」
どんな形にしろ。どんな格好であれ。
目に見えるか弱い女性の味方なのだ。
男は女性に寄り添い耳を傾けるべきだと、世論は【夫】を責め立てる。
バシャバシャ!
「っこ、こうでいいのか!?」
俺は携帯に向かって聞いた。
馬鹿みたいに。
俺は携帯で【赤ちゃん入浴】を検索して沐浴をさせていた。ジップロックに入れておいた携帯の画面を見るもすで落ちている。ジップロックの上から電源を入れたくても、腕も指先も携帯へは動かせないことが歯痒い。
ありすの為に買ってあった乳児用の風呂にお湯を溜めて、湯加減を温度計で確認をし水で調整をしてからゆっくりとお湯の中に浸からせた。心臓がバクバクとなった。8月で蒸すためか汗ばんでいて啼いていたためか全身と湿っているように思えて入浴させようと至った訳だが。
とても軽い身体だ。
軟体動物のようにふにゃふにゃだ。掴みどころがない。
「はぁはぁ」
ありすの命綱は俺の腕だけだ。
優しく支えて落とさないようにお湯をかける。それから赤ん坊用の石鹸で優しく撫でるように洗う。
「ひぇええ~~怖い怖い怖いぃいい」
ガタガタと恐怖に震える身体と折れそうになる心に、「俺しかいないんだぞ! しっかりしろ! 雪理!」と自身に発破をかけるしかなかった。
涙目の俺とは対照的にありすは目を点にさせされるがままになっていた。大人しい様子に俺も助かったのは言うまでもない。
「あいつもこうだったのかな」
思わず俺はありすを見殺しにしたあの女を思い出した。ふいにだ。
しかしすぐに顔を左右に振った。あんなのを思い出すのも時間の無駄だ。
いなくなった人間に想いを馳せたところでなんになるだと。
「クソ女っ」
少し強張ってしまったからか、ありすを支えた腕から力が抜けてしまった。
つるりんとありすが落ちそうになり「!」俺も慌てて腕を潜り込ませ事なきを得た。この場で感情的になってしまったことに後悔をする。俺の腕が命綱だというのに、なんて様なのか。全部が全部。あの女のせいだ!
「さ。上がるか、ありす」
眉間に寄るしわの深さを刻み、苦虫噛んで俺はありすに言った。
PM22:15
子ども用の小さな布団を敷いてありすを寝かせた。
ありすの横でがくりと顔を項垂れてしまう俺を、もしも、あの女が見ればなんと言って来るだろうか。
『普段からしないからよ』『やっと父親をヤる気になったの?』『急にどうかしたの? 今更』『媚なんか売って、何? どうかしたの?』
浮かび言葉は全部、言う気がした。これ以上にキツい言葉を放ってくるとも思うが、母親的立場のあの女が吐き捨てそうな言葉なんかを俺は知らない。元々、言葉の言い方や話し方もキツい奴だ。それで周りからも子供の頃からすでに浮いていたし、社会に出ても変わらなかった。しかし、あの女は馬耳東風。直す気なんかさらさらとなかったし、気を付けようという努力もしなかった。だから友達も、恋人なんかもいなかった。俺しかいなかった。と、思う。
一体、どこへ。
一体、誰の元に。
身一つで行ってしまったんだか。
「クソ女」
俺はありすの顔を見据えた。
「女の子は父親に似るっていうしな」
顔のパーツはほぼ、今のところ俺に近い。そこもあの女は気に食わなかったのかもしれない。だから顔も見たくないほどに。傍に置けないほどで。
置いて行かれてしまったのか。可哀想で哀れなありす。
俺は見守らきゃいけない。ありすが成人するまで。
今日から父親にならなければならない。
ゾゾゾゾ――……ごっくん。
「父親に、なる????」
俺は子どもが苦手だ。啼くし、煩いし、臭いし、相手のことなんか気にしないし、迷惑をかけてもお構いなしと、いいところを見つけるのが難しい。それが自身の子どもであれば、可愛く見えると聞くが。
今のところ、ありすに対して【それ】がない。
「さぁ。お湯で温まったし。ありす、少しお寝んねしょうな」
これからどうしていいのかと真剣に悩む。男手一つで育てられるだろうか、思春期のJCに無視されたり、家出なんかもされてしまうんじゃないだろうか。SNSなんかで厄介な目に遭ったりするんじゃないだろうか。男親の俺が言ったことなんか邪険にされたりするんじゃないのか。遙かまだ先の未来の未知数のやり取りに眩暈がする。だが、手放す真似なんかはしない。この子どもは俺の娘だからだ。生かすこと、成長させること、自立させることの義務が父親である俺にかかっている。
「あァあああァあああァ‼」
「啼くな! もう夜なんだぞ!?」
PM23:08
「よしよし! よぉ~~っし! よぉ~~し!」
抱きかかえて居室内を歩き回った。どれくらい歩き回ったのか。だが、しかし。泣き止まない。腹が減っているのかと粉ミルクを作るも飲まないし、オムツもきれいだし。どうして、こんなにも啼くのかが分からない。
「母親がいいのか! いないんだよ! 消えたんだっ!」
言いたくない言葉が俺の口から飛び出てしまう。認めたくない現実だ。ありすも抱き心地の変わった腕が気に入らないんだろう。柔らかくもふわふわじゃない胸板も好みじゃないんだろう。歌い声の低さと外れる音程の歌が聞きたくないんだろう。
だが、そこは譲歩してくれないと、今後も俺と二人きりで生活をしていくんだぞ?
PM23:30
遂に俺も心が折れてしまった。
全く、泣き止まないありすを連れて俺はアパートから一旦外へと出かけることにした。行く当てなんかない。抱っこ紐を説明書を見ながら取り付け、腹にくっつくようにありすを乗せた。それでも泣き止まない。零れる涙と真っ赤な顔。額で体温計で熱を測ったが平熱だった。やはり。俺なんかでは不服のようだ。抗議をしているんだ。しかし、悪いが謝る相手なんか、もうどこにもいないんだ。謝る気なんかもないが。
免許はあるが車がない。夫婦共同の軽ワゴン車が有ったのだが。
「マジで。あの女ァああ!」
乗り逃げされてしまっている。
今日から車のない生活で、自転車頼みになるってのか。自転車の後部座席には赤ん坊用のものなんかない。外出は抱っこ紐頼みになる訳だ!
「マジかよ」
外の駐車場で俺は心底呆れと怒りに震えた声を吐いた。車もなく、遠出も叶わなくなった俺は、ゆっくりと歩き出した。ありすが落ち着くまで夜風にあたることにした。8月の夜はまだ暖かいから助かった。晴天で星すら見える空が有難い。月が照らす歩道を俺はゆっくりと歩き出した。
「あァあああァあああァ‼」
「ほら。お外だよ、ありす」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます