男やもめの異世界子育て支援食堂

ちさここはる

子育て記録:1 新米落第パパ、ママに見捨てられる

  PM19:46


 誰のために働いてやっていたのか。朝から晩まで汗水垂らして寝る暇も惜しんでやったのか。あの女は。結婚をして誓いを立てた仲だというのにっ、だというのに!


「子どもを置いて消える母親クズがどこにいるぅうう!」


 俺は井上雪理セツリ。32歳。妻の理生リオは27歳。長馴染み婚ってやつだった。お互い結婚相手もいないし、嫌いでもないしってもんで結婚しヤっちまったのさ。結婚二年目にして産まれた娘のありす、四か月を残して、携帯に《今日は早く帰って来てね》なんて言葉にさ、俺も頑張って仕事を上げて帰ってみればだよ。真っ暗な部屋の中でありすは大泣きをしていた。


 PM18:42


『え。どぅゆ……こ、とだよ』


 唖然として立ちすくむ俺に玄関のベルがけたたましくなった。ブーブーブー! 激しいブーイングのように。いや、本当にそうだった。俺が帰って来たことを確認をして特攻ブーイングな訳よ。ガチャリと扉を開けて待っていたのは、


 PM18:50


『ご主人様ですか? 少しお話の方よろしいでしょうか』

『近隣の住民の方から通報がありまして。奥様はどちらかに行かれていますか? 行き場所はお聞きしていますか?』


 育児放棄。幼児虐待。


 尋常じゃないありすの啼き方と静まり返った部屋を危惧した誰かが警察に匿名で通報をしたようだった。されて当然のことだ。されてしまったことにショックはないが。妻が蒸発しやがったことに怒りが収まらない。四か月のありすを置いて行くのは母親としてどういう案件だっ! 普通なら一緒に蒸発でもなんにしろ、連れて行くってもんじゃないのか!?


『ぃえ。妻の居所は知らないんです、本当に』


 何か! 俺との子どもなんかなかったことにして、新しい人生を生きたいってことなのか! じゃあなんで! 俺と子作りなんかしたんだよ! じゃあなんで! 俺なんかと結婚したんだよ! 金か! それとも世間体か! 


 なんなんだ! なんなんだ! なんなんだ!


 なんだってんだ!


『本当に、……分からないんです。すいません。俺も、今、帰宅したばかりでして』


 俺は誰のために仕事をしていた? 俺が汗水垂らして、寝る暇を惜しんで働いた結果の代償がこれなのか? 天罰? じゃあ、それと同じくらいのことをあの母親クズにもしてくれよ!? 死がふたりを分かつまでって神様に誓った仲なんだからさぁああ‼


 近隣住民の話しから、あの女がありすを見殺しにしたのは16時頃。その時間帯前まではありすの啼き声はなく、テレビの音が窓から聞こえていた。そして、ドアの音が壁に響いた。その後からひっきりなしにありすの啼き声が、俺の帰宅する18時過ぎまで続き寝不足になっただとかの苦情を早口で吐かれ。そして事情を知り同情と憐みの目が俺へと向けられ、そそくさと部屋に戻って行った。口端を吊り上げる横顔を俺は見逃さなかった。部屋に戻って酒の肴にされているのに違いない。SNSで配信されているのかもしれない。男やもめになった俺を、あざ笑っているに違いない。


 笑えばいいさ。


 世間に知らせればいいさ。


 PM20:00


「ええと」


 知ったことか! 暇人共が‼

 そんなことなんかより。俺がしなきゃいけないのは、


「母乳? 缶ミルク??」


 まず。ありすに食事をさせること。初経験なのは言うまでもないだろう。

 全部をあの女に預けてしまって、何もやらなかったツケが回って来たってだけの話しだ。ありすをハイローチェアの上に乗せて優しく足先で揺らす。

「思い出せ! なんだった????」

 両手で頭を抑えた。

「確か。母乳の出が悪くて……缶ミルク!」

 台所に行けばキッチンテーブルの上には缶ミルクと哺乳瓶が洗われていない状態で放置をされていた。


「あんのっ! 馬鹿野郎ぅうう‼」


 洗われている哺乳瓶が他にあり、

「お湯か!? 水か!?」

 俺はよかったと思ったのも、つかの間。


「何㏄を飲むんだ????」


 直ぐに打ちのめされた。

 分からないことが多すぎる。全部が自業自得なのは痛いほどに感じている。恐らく、こんな事態にならなかったら何もしないで、今までの仕事人間のままだったであろう。ありすとも会話もしないでいたに違いない。間違いない。だが。どうだ? 今のこの状況。何もかもを押し付けられた俺は、同情されてもいいんじゃないのだろうか。

「携帯で四か月の赤ん坊のミルクの量と、やり方を検索すっか」

 近代文明に感謝感激ってもんだな。


 毎日、こんなことをしていたのか。


 それが俺の率直な感想だった。

 携帯でやり方を検索して、知ってからはさらに忙しさが増した。

 俺がありすにやったことは以下である。


  ↓


 ※警察官に頭を下げた(経験あり)

  → 児相への連絡はしないでくれと頼み、無理であれば市役所なり連絡をとると約束をした。その際に自分の電話番号と職場の連絡先を聞かれる。


 そのときに、

『里親も視野に考えておいてください。無理はされずに連絡を』

 警官の言葉に耳を疑った。

 男親だからか? 女親よかあてにならない。って不安なのか?

 俺はそう思われてしまったようだ。


 ※オムツを替えた(初体験)

  → 携帯でテープの留め方を知った。


 ※衣類の交換(嘔吐と何かでびちゃびちゃだった)(初体験)

  → 携帯で衣類の着せ方を知った。


 ※赤ん坊の食事を用意する(初体験)

  → 携帯と缶ミルクの月毎記載にやり方を覚えた。


 ※赤ん坊にゲップをさせた(経験あり)


「近代文明バンザイ」


 缶ミルクについている配分の目安も役に立ったのは言うまでもない。有り難いってもんだ。マジで。あとはネットで調べてやかんでお湯を沸かして注ぐ。そして、氷水につけて人肌まで冷ました。腕にあてて温度の確認をしたが、どの程度か全く分からないから温い塩梅を選んで飲ませた。


 こんなことを、毎日と赤ん坊のために寝る暇を惜しんでするのか。いや、寝る暇もなく啼かれるのだ。


 あと何回。缶ミルクを作らなければならないのか。

 啼く度にだとか、2~3時間後に飲ませて下さいの文言。

 正直。


 マジですか……だよ。


「ぁあああァァアァああ‼」


「俺も泣きたいよ!」


 俺はありすをクッションの上に乗せて、左腕の上に置いて哺乳瓶の乳首を口に押し当てた。するとどうだろうか。ありすが哺乳瓶に小さな手を添えて、勢いよく吸いついて飲み始めた。


「ゆっくり飲んで、明日の朝まで寝てくれよなァ。さて。俺はこれから恥じを世間に知らせて育児休暇を取得するよ。ありす」


 両利きの俺はアリスに飲ませつつ原部長にラインを送った。打つ指先が震えるには仕方がない。これは恐怖と羞恥なのだから。


 井上雪理:部長すいませんが。急ではありますが、育児休暇を取得を出来ますでしょうか? 家庭の諸事情から娘のありすを見なければならなくてはなりました。


 原部長:どしたどした? 何? あれ、嫁さんは?????


 井上雪理:お恥ずかしい話しですが。蒸発してしまいました。


 原部長:ちょっと。意味が分かんないけど。失踪しちゃったってこと??????????????????????????????


 井上雪理:はい。俺と妻の両親は他界していて預かって頂く当てもありません。保育園にも預けていませんでしたから。預けるのは来年からと妻とも話していたので。

 

 話すのも打ち込むのも嫌になる。きっと。この先も、色んな誰かに同じ説明をしなければなんないのだろう。そして憐みと嘲笑され続けていく。


 くっそたれが!


 原部長:わかったよ。在宅も無理だと思うからその辺も報告しておくから。その後に書類を送るから記載が必要な個所にも蛍光ペンと付箋で分かるようにしておくからわかんないことがあったら、また、聞いてくれ。じゃあ、明日から休みにしていおくから。引継ぎなんかで、ちょっと聞くとは思うから、そのときは協力を頼むね。


井上雪理:わかりました。本当にすいません。


 原部長:何か月取得か分からないけど、状況が状況だから私も事務と社長とも話し合うからね。挫けそうになったら相談するんだよ? 赤ちゃんは宝だからね。あと。脆く壊れやすいから気をつけるんだよ。


 原部長は四人の子煩悩パパだ。

 だから話しも通じるし理解力がある。

 同時に。


 こんなパパにならなければならなかったのか、なんて思った。


(無理だわ)


 原部長:じゃあ夜泣きもあると思うけど頑張ってね~~


 井上雪理:ども。


 ぽい! と携帯をソファーに放り投げた。

 

 PM21:29


 ゲップをさせたありすをハイローチェアにゆっくりと降ろした。ぐっすりと眠ったのを確認をした俺も大欠伸をする。疲れた。眠い。この言葉に尽きるってもんだろう。

「あいつの寝室でも見てくるか」

 頭を掻いて向かったあの女の部屋で俺が見たものは。


 離婚届。

 結婚指輪。

 携帯。


 さらに俺宛ての手紙がデスクトップパソコンに貼られていた。


 短い文面の手紙には俺への恨みつらみが書かれていた。


《あなたほど身勝手で腹の立つ夫はいません。友達に戻りたくも、顔なんかもみたくない。ありすの顔も世話も見たくもしたくもありません。さようなら。御機嫌よう》


 生後四か月のありすをも嫌悪する母親だった女が書いたもの。どんな気持ちと感情で書いたのか。俺は、こうなるまでヒドイ夫だったのだろうか。

 くしゃ! と俺は手紙を握り潰した。


「あばよ!」

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