第七話③ お兄ちゃんっ!!!
ジェニーが落ちていく。それを把握した僕は急いで崖際へと駆け寄った。誰よりも近い僕しか、彼女にはたどり着けない。走った、走った。手を伸ばして走った。あの小さな手を、摑まえる為に。
でも。
(間に合わ、ない……ッ!)
全然間に合わなかった。このままじゃジェニーはそのまま崖下へと落ちて行ってしまう。この辺りは深い部分が多かった筈だ。落ちたジェニーは、そのまま波にのまれてしまって……ママと、同じように……た、助けなきゃッ!!!
「ッ!?」
しかし、崖際まで来た僕の足が止まった。眼下に見える海、波、水。溺れることになった、ママが死んでしまったあの時のことが、脳裏に蘇る。いくら振り払おうとしても逃げられない、自分のトラウマ。口を開ける度に入ってきた塩水が、もがけばもがく程に沈んでいこうとする身体が、鮮明に、鮮烈に思い返される。足が、動かない。
(だ、駄目、だ。怖い、怖い……怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖いッ!!!)
心が恐怖に塗りつぶされる。ゴンちゃんと知り合うことになったあの時と同じだ。全身を鎖で締め上げられているかのように身体が硬直し、その場から動けない。固まる足、震える唇、開かれる瞳、流れ落ちる汗。身体全体が凍り付いてしまったのではないかという錯覚さえ覚えている。
景色がゆっくりになり、ジェニーが落ちていっているのが解るのに。もう少しで取り返しがつかないことになってしまうことが、容易に理解できるのに。僕は何も、することができない。ここまで来て、こんな状況になってまで、僕は、僕は……。
「怖い、怖い、よぉ……僕は、僕、は……」
「ノアっ!!!」
突然。僕の耳にはっきりと聞こえた声があった。女の人の声だった。でもそれは、聞き慣れたサラみたいなクラスメイト。そしてテレビや動画で見るような有名人のものでもない。でも僕は、その声を誰よりも知っている。もう二度と、聞けないと思っていたあなたの声。
「しっかりしてっ! ジェニーを助けて、お兄ちゃんっ!!!」
「マ、マ……?」
ママ? ママ、なのかい? 一体、何処に……?
「ッ!?」
次の瞬間、僕の背中を押す力があった。あたたかい両手で優しく、でも力強く押してくれる力。それを感じるや否や、まるで魔法が解けたかのように僕の意識が戻ってきた。身体を締め上げていた鎖が千切れていき、全身に血が通っている感覚が戻って来る。
押してくれたのが誰なのかは解らない。だけど、振り返っている暇はない。みるみるうちにジェニーの姿が小さくなっていってしまう。一秒どころか一万分の一秒だって惜しい。それにどんなに最低の野郎だろうが、僕は、ジェニーの、
「ジェニーィィィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッ!!!」
お兄ちゃんなんだッ!!!
解き放たれたかのように、僕は崖際から飛んだ。飛ぶ際に壁面を蹴って、落下を加速させることだってできた。そうして宙に躍り出た僕は、必死になって手を伸ばして。
「ッ!!!」
「っ!? お、お兄……」
水面につくギリギリで妹を掴み、そして胸の中へと抱き寄せた。間に合った。彼女の頭に腕を回し、着水に備えた直後。僕たちは海中へと落下した。
「~~~~~~~~ッ!!!」
水の中は、やはり怖かった。暗くて、冷たくて、突然の来訪者を全く歓迎していないかのような、その心地。いつもなら僕は、すぐにパニックに陥っていただろう。
「ごぼがぼっ!?」
(ジェニーッ!!!)
でも、僕の背中にはぬくもりが残っていた。誰かが押してくれた、あたたかい感触が。そのお陰で僕はパニックに陥ることもなく、水の中で目を開けることができた。
視界に入ってきたのは、口を開けてしまって苦しんでいるジェニーの姿。抱きしめている彼女が、息をしようと必死にもがいている姿であった。僕の大切な妹が、苦しんでいる。僕はお兄ちゃんだ。彼女を助けるのは当たり前だ。
だから、今助けるよ、ジェニー。
「……んっ」
「っ!?!?!?」
水の中で、僕はジェニーにキスをした。キスというか、人工呼吸だけどね。彼女が飲んでしまった水を吸い出して、僕の中の空気を上げる。少し落ち着いてきたのか、彼女が目を開けていた。そしてまたびっくりしていた。
ごめんね、ジェニー。最低なお兄ちゃんからキスされるなんて、気持ち悪いかもしれないけどさ……。
(君が、無事なら、それ、で……)
これで、最後だから。ただでさえ泳げない僕が、遂には息すら吐きだしてしまった。一気に胸が苦しくなってきたし、視界も霞んでくる。肺が酸素を求めているけど、周囲は三百六十度水だ。呼吸することはできない。
苦しい、辛い。早く何とかしてくれと身体が警告を鳴らしているけど、泳げない僕に成す術はない。ならばとにかく暴れ回ってしまいたい、という衝動にも駆られたけど、僕はそれを無理矢理抑え込んだ。
だって、苦しんでいる僕を見たら妹が、ジェニーが怖がっちゃうだろう? 僕は彼女のお兄ちゃんなんだ。彼女を怖がらせちゃいけない。大丈夫だよって、笑ってあげなくちゃ。それが例え、死に繋がるとしても。まあ、人殺しの僕は死んでも構わない。償えない罪を犯した僕は、それでも清算しなきゃならないからね。命を並べてでも。
でも君は駄目だ、ジェニー。君はみんなに愛されているんだ。僕も含めて、みんな君のことが大好きなんだ。そんな君は、死んじゃダメだ。ヘリコプターとか色々来てくれてたから、少し粘ってたら誰かが助けに来てくれるさ。
もう少し。もう少しだよジェニー。君は生きて。もっと愛されて。それだけが、僕の望みだ。
だけど。ああ、もう限界かな。全身に力が入らなくなってきてる。せめてジェニーが助かる時までは粘ってたかったけど、もう、胸の痛みも、意識、も……。
(ジェニー。君を、愛してる……)
「っ!!!」
ゆっくり目を閉じた僕は、最後にもう一度、最愛の妹の顔を見た。悲痛な顔をしている彼女。ごめんね、ジェニー。また君にそんな顔をさせてしまったね。本当に僕は、お兄ちゃん失格だ。
できれば君が、笑っている顔が、見たかった、な……。
・
・
・
水の中に落ちたわたしはパニックになっていた。今まで体験したこともないくらい高い所から落ちたこと。着水した時の痛み。未体験でありかつあまりに強い衝撃によって、わたしは叫び声をあげようと口を開けてしまった。
「ごぼがぼっ!?」
そして後悔した。そこはもう空気のない水の中。口の中から入ってくるのは、水、水、水、水。お腹や胸に容赦なく水が入り込んでくる。
予想外の来客に更にパニックに陥ってしまったわたしは、目を閉じたままでしっちゃかめっちゃかに動こうと暴れ始めた。早く、早く空気をちょうだいっ! 苦しい、苦しいっ! 嫌だっ! 嫌だっ! こんなに苦しいなんて嫌……。
「……んっ」
そう思っていたら。急にわたしの唇が誰かによって塞がれた。直後、飲み込んでしまった水を吸い出してくれて、わたしの肺の中に空気が満ちていく。苦しかった胸が徐々に楽になっていき、同時に身体中の力が抜けていくのを感じていた。
一気に気分が楽になってきたわたしが目を開けると、目の前には、
「っ!?!?!?」
目を閉じているお兄ちゃんの顔があった。綺麗な顔。男の人とは思えないくらいの可愛いお兄ちゃんが今、わたしにキスしてくれている。驚かずにはいられない。
すっと唇を離したお兄ちゃんは、わたしを見て優しく微笑んでくれた。わたしの飲んでいた水を、全部引き受けてくれたのに。さっきまでのわたしと、おんなじなのに。絶対に、苦しい筈なのに。
お兄ちゃんは、優しく、笑ってくれていた。
(ジェニー。君を、愛してる……)
「っ!!!」
そして聞こえた。水の中で声なんて聞こえない筈なのに。お兄ちゃんの口は、全く動いてなかった筈なのに。お兄ちゃんはわたしを見たまま、そう言っていた。わたしには、それが、解ってしまった。
やがてわたしを抱きしめていてくれたお兄ちゃんが、腕を解いた。違う。腕が、解けた。力なく瞳を閉じたお兄ちゃんは今、わたしから手を放してゆっくりと沈んでいこうとしている。わたしを助けようと空気をくれたことで、お兄ちゃんが溺れてしまっているんだっ!
泳げないお兄ちゃんがっ! 詐欺師だってっ! 人殺しだってっ! 死んじゃえば良いんだってっ! あんなに酷いことを言った、わたしなんかのためにっ! 今、わたしの目の前で、溺れ死んじゃおうとしてるんだっ!
(いやっ!!!)
わたしは慌ててお兄ちゃんのブレザーを掴んだ。これ以上、お兄ちゃんが海の底に沈んでいっちゃわないように。死んじゃわないようにっ!
(いやっ! いやぁぁぁっ! 死なないでっ! 死なないでお兄ちゃんっ! 詐欺師なんて言ってごめんなさいっ! 人殺しなんて言ってごめんなさいっ! 死んじゃえば良いなんて言ってごめんなさいっ! 本当はわたし、お兄ちゃんに死んで欲しくなんかないのっ!)
必死になって引き上げようとするけど、お兄ちゃんは重たくて、わたしなんかじゃ到底引き上げることなんてできない。
(嘘つかれてて悲しかったっ! お兄ちゃんの所為で、ママが死んじゃったのも嫌だったっ! でも、でも……)
両手でお兄ちゃんの服を掴んで、一生懸命バタ足をする。一緒に浮き上がろうと必死になって足を動かすけど、わたし達はずっと、沈み続けている。下には真っ黒い何かがやってきている。
(お兄ちゃんのことも大好きなのっ! 一緒に遊んでくれてっ! ご飯を作ってくれてっ! いつも行ってらっしゃいって見送ってくれたお兄ちゃんのことが大好きなのっ! いやっ! いやよわたしっ! もうお兄ちゃんが一緒に遊んでくれないなんてっ! ご飯を作ってくれないだなんてっ! 学校に行く時に見送ってくれないなんてっ! 絶対にいやぁぁぁっ!!!)
全身に力を入れて、わたしは泳ごうとする。でも上に見えている水面はどんどん、どんどんと遠くなっていっている。わたし達は、沈み続ける。まるで深い海の底へと、誰かに引きずり込まれているかのように。下にある真っ黒な何かに、深淵に、吸い込まれていくかのように。
(誰か、誰か……お兄ちゃんを……優しいわたしのお兄ちゃんを……)
水の中なのに、涙が溢れてきているような気がしている。やがてわたしの息も、限界が近づいてきていた。元々お兄ちゃんが分けてくれてた分しかないし、わたしは水の中でずっと潜っていられるような体力はない。
やがて歯を食いしばっていたわたしは我慢ができなくなって、口を開けてしまった。その瞬間、海水が容赦なくわたしの体内に入ってくる。もう、だめ……。
(……助けて……パパ……ママ……)
「ノアっ! ジェニファーっ!」
誰かの声がした。暗い海の中なのに、はっきりと、わたしとお兄ちゃんを呼ぶ声がした。女の人の声だ。酷く懐かしくて、ずっと聞きたかった、あなたの声。
「助けて、今度こそ助けて、パパっ!!!」
(マ、マ……?)
かと思ったら、わたしとお兄ちゃんを優しく抱きしめてくれたかのような心地がした。そして次の瞬間。固い何かが背中に当たり、わたし達を上へと突き上げていく力があった。
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