第七話① いつまで浮かない顔をしているつもりだい? お兄ちゃんがやって来るぜッ!


 わたしは今、一人で街外れの海が見える崖のところに座っていた。誰にも教えていない、わたしだけの場所。寄せては返す波の音と、海から吹き付けてくる風の音しか聞こえない、静かな場所。家にいるとパパが扉越しにうるさかったから、こっそりと抜け出してきた。何も考えずにぼーっとしたい今のわたしにとって、ピッタリの場所だった。


「…………」


 崖際に足を投げ出して座っているわたし。下は断崖絶壁で、落ちたらタダじゃ済まないことがよく解る。いつもなら足がすくんじゃいそうなものだったけど、今は全然怖くなかった。

 怖いなんて思いよりも、悲しみの方が大きかったから。


「……お兄ちゃんの嘘つき」


 もう一度、わたしは口にした。ママは遠くに行っただけなんだって、嘘をついていたお兄ちゃん。厳密に考えれば死んじゃってるっていうことも、遠くに行ったとも言えなくもない。

 でもそれは、底意地の悪い嘘だと思う。あたかも生きていることもあるかもしれない、そう取ってしまったのはこっちの所為だと言わんばかり。嘘は言っていない、そっちが勝手に勘違いしただけなんだって言ってきそうな、そんな汚い言葉。嘘と何が違うって言うんだろう。


「……お兄ちゃんの、所為で」


 それにもう一つ、思い出したことがある。そもそもママが死んじゃったのは、お兄ちゃんが海で溺れていたからだった。

 もう一度、あの日を思い返す。あの時、わたしは遠くへ泳いでいくお兄ちゃんを見ていた。その前に溺れかけて、ちょっと休んでようねって言われてパパとママにパラソルの下まで連れていかれた時のこと。


「ジェニーはワンパクねっ! ママの小さい頃そっくり。もう、目が離せないんだから。ちょっとここでお休みしようね~」

「……うん」

「よーし、良い子だジェニーッ! 良い子には、パパがジュース買ってきてあげるからなーッ! ちょっと待ってろ我が娘よッ!」

「…………」


 パパが買い物に行って、ママはそんなことを言っていた気がする。でも自分はここにいなさいって言われるのに、お兄ちゃんは一人で泳ぎに行ってて。それが少し、羨ましかった。だからすぐにママに言った。お兄ちゃんがあんなところで泳いでるって。それを聞いたママが目をやって、そしてビックリしていた。


「ジェニーはここに居てっ! パパが戻ってくるまで絶対動いちゃ駄目よっ! 良いわねっ!?」

「っ!」


 ママは行っちゃった。あの時わたしは、とても嫌な予感があった。ここでママを行かせちゃったら、もう、会えないんじゃないかって。

 でも、わたしは止めなかった。だって、良い子にしていないと駄目だと、思ったから。良い子じゃないと、ジュースがもらえないと思ったから。わたしは、何も言わなかった。


 そしてママはお兄ちゃんを助けに行って、その後は……。


「全部。お兄ちゃんが、悪いんだもん」


 思い出から戻ってきたわたしは、またうつむいた。あの時ママを止めていれば、ママはまだ生きていてくれたんだろうか? でもママを止めていたら、お兄ちゃんは助からなかったかもしれない。お兄ちゃんとママ。そんなどっちかを選ばなきゃいけない状況になるなんて、いくら何でもひどすぎる。

 おそらくいつもしているこのペンダントを持っていたらママに会える、っていうのも嘘だ。たかだかペンダントを持ってるくらいで、死んだ人間に会える訳がないじゃない。また、嘘をつかれていたんだ。


 だから、お兄ちゃんが悪いんだ。そもそもお兄ちゃんがあんな遠くなんかに行かなければ、あんな選択肢だってなかった筈なんだ。挙げ句の果てには嘘までつかれて、今わたしが、こんな嫌な思いをすることだって、なかった筈なんだ。胸が苦しくて、悲しくて、涙ばかりが出る、ここまで辛い気持ちなんかに。


「うううう……ひっく……っ」


 また、涙が出てきた。昨日からあんなに泣いたのに、まだ出てくるなんてどうなってるんだろう。限界まで泣いたら、わたしも干からびちゃうのかな。

 いつもみたいに余計なことを考えたりもしてみたけど、全く気が晴れない。悲しみ、そして辛さ。それ以外に、何も考えられない。何処に行っても、何をしてても、そればかりが頭の中を占めている。


「ママ」


 わたしは立ち上がった。喉を鳴らして、口を開いて、ママを呼ぶ。あの日溺れてしまったママ。お兄ちゃんを助けたママは今、天国にいるんだろうか。なら。


「ママ。わたしも、そっちに……」


 このままここから下に落ちたら、わたしはママのところに行けるんだろうか。嘘つきのお兄ちゃんでも、それに乗っかってたパパでもない、優しかったママのところに。そうだ、その方が良いじゃない。

 そう思ったわたしが、崖下に向って歩き出そうとしたその時。崖下からプロペラが回る大音量と共に一機のヘリコプターが現れた。


「っ!?」

『こちらアルファワンッ! 対象を発見しましたッ! 性別、背丈、そして顔。いずれも行方不明として捜索願が出されていた彼女、ジェニファー=シーウォーカーと一致しますッ!』

『了解したッ! すぐに全部隊に通告するッ!』

「えっ? えっ? う、うわっ!」


 ヘリコプターに乗ったおじさんがわたしを見て何か言っている。プロペラが回ってることで強い風が吹いていて、わたしは尻もちをついてしまった。な、な、何、この人?


「ジェニーッ!!!」


 やがてヘリコプターが上の方へと上がっていき、上空からこちらを見下ろしているくらいまでになった頃。面を喰らって茫然としていたわたしを呼ぶ声がした。

 それはわたしが、よく知っている人の声。いつも朝ご飯を作ってくれて、一緒に遊んでくれてた、わたしの家族の一人。


「お兄、ちゃん」

「ジェニー、無事だったんだねッ!?」


 金色の短髪を揺らした、背の高い人。女の子かと見間違う程の華奢な身体に、綺麗な顔。いつも写真を撮ってお小遣いの足しにしていた彼。ノアお兄ちゃんだった。

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