10.「ごめんね、澪……」(1/2)
ど、ど、ど、ど――。
鼓動が早い。心臓が耐えきれるか心配になるほど。
「っはぁ、はぁ――!」
まるで何分も息を止めていたかのような苦しさだ。荒れたなんて言葉では形容できない呼吸で、酸素を求めて肋間筋と横隔膜に
何が起きたのか、本当に分からなかった。
網膜にくっきりと
澪が、私を殴った――?
何もかもが分からなくて、信じられなかった。勝手に人の引き出しを開けた私が悪いなんて、考えている余裕はなかった。それに、鍵もかかっていないただの引き出しを開けただけで、あの澪が私を
「澪――……」
経験が一瞬でトラウマになるのを感じた。今からでも、何かの間違いだったと思いたい。澪が私を叩く可能性なんて、一パーセントも考えたくなかった。
零パーセントか一パーセントかの差異は、一パーセントか百パーセントかの差異よりも、遥かに重い。
ただ――。
「セーブ、このタイミングでよかったかな……」
合図を出して灯籠の火を起こすと、映し出されたログには明らかに今作成されたものがあった。今日の零時をロードしたことでジャンクメモリとなった白紙に続いて、五月二十二日月曜日と記されたそれ。時刻は十五時をまわった頃。
殴られることはさすがに想定外だったが、このセーブは最後の切り札として心づもりをしていたものだ。私が長くこの能力を使ってきて、一度も実践したことのない運用法。考えるまでもなく私への負担の大きさが知れて、あまりの怖さに
身を滅ぼす覚悟すら、必要だ。
「よりにもよって、ログハウスで倒れたばっかりの今かぁ……」
ただでさえ負担が大きそうなことをしようというのに、言ってみればついさっきここで動けなくなっていたばかりである。一度のロードさえ避けていたというのに。
自分が顔を
「ぅあ……!?」
自分の変な声――なんて聞こえないくらい、急に意識が飛びかけた。まるで、ログをロードしたあとのような、魂を引き抜かれる想像さえしてしまうあの感覚。必死に意識を
――考えたことはあった。私がログハウスにいる間、現実での私がどうなっているのか。
さしずめ、気絶のような具合だろう、と
ログハウスにいるときの現実の私のことは、どうしたって知ることはできない。ログハウスに入ってロードをせずに戻れば、澪にでも聞いてどんな感じだったかは分かるのだろうが。私の状態によってはフォローが面倒なため、その方法はこれまでやってこなかった。
今の、意識が飛ぶ感覚。意識が、現実に引き戻される感覚。
きっと、澪が私の体を揺さぶりでもしたのではないか。気絶している人が起こされるのと似た具合で、私がログハウスから戻されるのかもしれない。それなら一応理屈が通っているように思えるけれど――いずれにしても、現実からの刺激が続けばここにいられない可能性がある。
実行しよう。私の、最後の切り札を。
「お願いだから、途中で気絶しないで……」
祈るように、自分自身に頼み込む。
あとでどれだけ反動が来たっていい。数日寝込むことになってもいい。だから、途中で力尽きる事態だけは起きないでほしい。
現実で目が覚めたあとの動きを脳内でシミュレートし、唾を
「ロード」
最新のログが選択されて、改めて意識が飛ぶ感覚が訪れた。
意識が戻った――今!
「えっ……!?」
意識が完全に戻るのも待たず、私は目の前の澪に全力で体当たりをした。
お世辞にもフィジカルが強いとは言えない澪と比べても、さらに数段階劣る私の力。それでも、完全に虚を突いたおかげで、多少後退するほどには彼女の体勢を崩すことができた。
生まれたほんの数秒の
「っ……!」
背後で澪がさらに顔色を変える気配を感じながら、私の目が
診断書。
病名――うつ病。
「ぅあ――ッ!」
背後から、ほとんどタックルと言える勢いの掴みかかり――澪の反撃。
私の上体はそのまま机の上に倒れ伏し、ぐり、と引き出しの角が腰にめり込んだ。思わず表情を大きく崩してしまう痛みに続いて、振り返ろうとした瞬間にベッドのほうへと投げ飛ばされる。さっきは不意打ちが功を奏しただけで、澪がその気になれば私に勝ち目はない。
激情に息巻く澪の、
彼女はすっかり正気を失っていた。
「ロード!」
澪を落ち着けることはおろか、状況を整理ことすら不可能だと判断して、即座にログハウスへ転移。息を落ち着ける間もなくログを選択し、ロードした。
この能力を何度も使っているうちに、ログハウスへの転移とロードにかかる時間は、はじめと比べてだいぶ短縮されている。普段はそれほど大きなメリットには感じられなかったが、まさに今、その差が輝いていた。
ログハウスに逃げ込んでから次に現実で意識が戻るまで、およそ一秒。
「えっ……!?」
私の頬を叩いた直後の澪を全力で押し返し、即座に体を切り換えして引き出しへ。
鬱病の診断書。備考欄には、重度の鬱症状によって大学生活を正常に送れない
こうした診断書を発行してもらったことはないが、おそらく、鬱症状が酷いときに講義を休む免罪符として書いてもらったものだろう。実際にこれを引き合いに欠席しているところは見たことがないが、きっと私に見せていなかっただけだ。
さらに書類を
「あ――ッ!」
背中に衝撃。
駄目だ、あまりにも時間がない。一度のロードで得られる情報が少なすぎる。
だけど――回数で勝負をすることが、私に与えられた力なのだ。やるしかない。
「ロード!」
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