09.「死なへんための拠り所」(2/2)

 掛け布団をかぶって――それもあごを隠すほど深く――、そのまま壁の方へと向いた。私からは顔が見えず、みおも白い壁以外何も見えていない体勢。掛け布団で覆われていても分かる、胎児のように四肢を引きつけて小さくなった寝姿だ。呼吸に合わせて、布団がわずかに上下する。

 ここまで弱々しい澪の姿は、どれだけ過去をさかのぼっても初めてのことだった。


「澪……もし言いたくなかったら、」

「失礼やで、それ。ここまで話進めといてさ」

「あ……ごめん、なさい」


 無言。いつもなら、遅れてでも指摘するのに。文脈に合っていても、この間柄でごめんなさいは堅い、と。

 怒っている。

 ……いや、違う。いちいちそんなところに触れている余裕がないのだ。今の彼女は、頼みの綱だった堅牢な殻を無理やり貫かれて、弱い中身をさらけ出そうとしている。不安やつらさを押し切って、話そうとしてくれているのだ。今の澪に、無駄な刺激は与えられない。

 また、数秒、数十秒。静寂の中、澪の言葉を待ち続けた。


「……紬希つむぎ、生きてる意味って持ってる?」

「…………」


 思わず、眉をひそめてしまった。澪からは見えていないだろうが――気づかれているかもしれない。

 やはり、そこなのだ。ロードをしても、日付が違っても、文脈が違っても、最初にその問いが思い浮かぶのだ。彼女の悩みの核心に触れようとすると、その入口は決まってそれ。

 少し考えて、……また、同じ回答しか思いつかない。


「前にも一回考える機会はあったんだけど、分からなかった。……今も、分かってない」

「うん……それでいいねん。それが正常やねん」


 正常で――誠実。澪の言葉だ。


「生きてる意味がはっきりしてる時点で、人間のやり方間違ってんねん。人間は生き方を模索すんねん――なんで生きてるかは追求しいひん。生きるのが当たり前やから、生きてる意味探す必要ないねんもん」


 言い回しは違えど、全く同じ話。

 この話のときに、澪は異常なほど思想を振りかざす。無論自分の考えを言うことなんて日常会話で腐るほどあるが、そんなものとは明らかに違う。彼女の中であまりにも明瞭めいりょうに確立されている、人生観。彼女の、人としてのり方。

 そんな澪の言葉に、肯定も、否定も、共感も、反発もできない。私には、人生観なんてものがないから。せいぜい自分の好き嫌いを知ることで精一杯だ。


「そりゃ、『自分はこのために生きてる!』って、物事にめっちゃ熱心な人はおるで。でも、そんな積極的な生きる意味じゃなくてさ。もっと消極的な話」

「消極的?」

「んー分かりにくいやんな。そうやなぁ……、簡単に言ったら、んじゃなくて、ってこと。生きるためのり所じゃなくて、死なへんためのり所」


 あぁ、それは消極的だ……と、納得してしまった。

 生きる意味と死なない意味は、結果的には同じものを指していても、どっちの視点から見ているかでその真意は大きく変わる。それにって、のか、のかが決まっていく。

 澪は、命綱で、ぎりぎり死をまぬがれている状態だ。あるいは、無理やり生きさせられている状態――かもしれない。


「あたしは――」


 今や、耳を澄まさなければ聞き間違えてしまうような小声だ。


「あたしは、そういう、消極的な生きる意味がはっきりとある。気づいたときにはあった。そのために生きてるし、それがなかったら生きてられる自信がない」

「それって、……どんな、」

「ごめん、なんかそれは、まだ言いたくない」

「あ、……うん」


 今度は、私の返事がかすれた。

 私から押し入って、私から始めた話なのに、……この場の圧力に、潰されてしまいそうだった。逃げ出したいという願望が、心の底に芽生えてしまっていた。

 澪の心の闇は、軽い気持ちで触れていいものではないのだと、このとき改めて痛感した。それはそうだろう――自分で命を絶ててしまうほどの苦悩だ。こちらに最大限の覚悟がなければ、むしろその闇にみ込まれる。

 それほどにくら黒闇こくあんを同級生が抱えているという事実に、震えそうだった。


「……ごめん、ちょっとトイレ行ってくる」


 むくりと、澪が状態を起こす。


「あ、私もう帰ろうか……?」

「冗談やめてーや。こんな傷心させといて一人にするん。一緒におってよ」

「あ、いや、……迷惑じゃなかったら、ずっと一緒にいたい」


 本当に、ずっと。


「――ありがとう」


 消え入るような声で、そう、つむがれた。

 ゆっくりとベッドから起き出した澪は、私と目を合わせることなく、トイレへと足を進める。中に入った澪のため息がかすかに聞こえた気がした。

 ……ありがとう。

 完全に不意打ちだった。せいぜい、帰らないでと願われるくらいだと思っていた。

 たった五文字のその言葉が、その重みをもって、澪の口から放たれたことはない。別に、普段の会話での謝辞が軽いとか、そういうことが言いたいのではなくて。きっと澪としても、あそこまで気持ちを込めてありがとうと口にしたのは初めてだろう。明らかに、言葉以上の何かがあった。


「一緒にいて、か――……」


 受け止め方が一番分からない言葉だった。

 だって、私のもとを去ったのは澪のほうだ。言われずとも、ずっと一緒にいるつもりだったのに。冗談抜きで、一生げる覚悟だったのに。どんな逆境にっても、澪の手だけは離さないと心に誓っていたのに。手を振りほどくどころか、生きるのを辞められたら、どうしようもない。……どうしようも、ないじゃんか。

 澪は、私と一緒にいることよりも、死ぬことを選んで――……。

 ……駄目。

 こんな考え方は、絶対にしてはいけない。どれだけ悲愴ひそうに打ちひしがれても、どれだけ死の理不尽さにくじけてしまっても、澪を責めるなんておかど違いもいいところで――責任転嫁もいいところだ。


「ん……」


 ふ、と。

 部屋の一角に目が留まった。

 数日後に澪が人生を終える、ベランダに続く大窓――ではなくて。私が使っているものと全く同じ、ライティングデスク。その、引き出しのひとつ。


「……なんだろう」


 本当に、なんだろう、だった。だって、見ているだけでは何もおかしいところはないのだ。ただ、何かを……感じていた。

 クッションから腰を離して、机に向かう。いくつもある引き出しのうち、なぜだかこのひとつだけに意識が吸い込まれてしまっていた。

 澪の部屋に入ったことはあっても、机の引き出しを開けたことはない。だから、明らかに私の能力とは関係のない感覚。これこそ恋人の勘なのかもしれない。

 固唾かたずんで、変に力の入る手をき動かして、引き出しを――開けた。

 紙、紙、紙。

 中は、書類ばかりだった。学校の書類や寮の書類、奨学金の書類や封筒など、私も見覚えのあるものがほとんど。ただ、違和感はすぐに訪れた。これらの書類は、積まれているのではなく、

 この下に、私の求めるものがあるという確信を得ていた。

 不自然な乱雑さで並ぶ書類の端に、手をかけて。



「紬希――!!」



 最高潮に達した緊張のすきを突かんと、背後から飛んできた悲鳴じみた声に、びく、と肩が跳ねた。反射的に振り返ると、トイレから出た澪の見たことのない顔だ。絶望、悲哀、不信、怒り――それらに収まらない感情の濁流が生む、複雑怪奇な表情。

 そこから伸ばされる、澪の腕。彼女の手は引き出しを押し込もうと――否。



 私の頬を、思い切り叩きつけた。



「っ……!?」


 叩かれた勢いのままに揺らぐ視界。よろめく身体。

 痛みの知覚より先に、何が起きたか分からない思考の空白――。


「――セーブ!!」


 突然、自分の声によるセーブの宣告。

 意思に先行して、私の精神はログハウスへと逃げ込んでいたのだった。

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