06.「……うっかり生きるの辞めちゃいそうやねんもん」(2/2)

 改めて尋ねられると、分からない、という答えしか出てこなかった。

 分からない。考えたこともない。考え方も分からないから、今答えが出せない。

 この問いは、言うまでもなくみおにとって重要なものだったはずだ。その答え次第で、未来が変わる? ましてや、答えられないとなると――。

 愚かにも返答の直後から後悔の念が生まれたけれど。ちらと目をやれば、彼女は納得したような表情を浮かべていた。それと同時に、どこか諦めたようにも映る。口を開く頃には、そのふたつの感情が綺麗にかすかな笑みへと落とし込まれていた。


「たぶん、それが一番正常な答え。正常で――誠実」


 ささやくように、澪は言う。

 正常。誠実。

 想定していた返事とは、似ても似つかない言葉。何をもってそう断じるのだろう。澪にとって、それはどういう立ち位置の言葉なのだろうか。


「心が健常な人は、生きてる意味なんて持ってへん。だって、生物は生きようとすることが大前提として組み込まれてるねんから。意思とか思考とか、そんな自分で操作できるようなとこよりも深い層に」


 ふいに、大きく溜め息。机をへだてて座る私のもとまで風が来るくらいの。


「生きてる意味がはっきりしてるのは異常や。本来ならないはずの――なくていいはずの生きる意味を、自分で作り出してるってことやねんから。く生きるため? 違う、そんなソクラテスみたいな思想じゃない。無理やりひねり出した意味にすがりついとかな、……うっかり生きるの辞めちゃいそうやねんもん」

「っ……」


 感情が、表情に出てしまう。眉をひそめた意味が、自分でも詳しくは分からない。

 ただただ、そんな日本語があったことに驚いた。

 うっかり生きるのを辞めてしまいそう。そんな言い回しがあっていいものなのか。そんな、一歩間違えば生命への冒涜ぼうとくにさえなりそうな言葉。うっかりなんて軽薄さで、まるでダイエットか何かのように、生きることを辞めるなんて。

 生死の問いをされた時点で確信していた、澪の希死念慮きしねんりょの存在。今この瞬間、絶対に間違いで起こった悲劇ではなかったのだと、判をされた気分だった。

 気の利かなさはブレない私が何も言えないでいると、澪が空気を換えるように大げさな一息をついた。


「……あたし、お酒飲まへんほうがいいかもな。今もこうやって、紬希つむぎ相手でもはばかられるようなこと言っちゃってるぐらいやし」


 言って、むしろ彼女は缶をあおった。早くみ干してしまいたかったのだろう。


「私に、……言いたくなかった?」


 絞り出した声に、ふと一瞥いちべつ

 こうして私が極端に気弱な発言をすると、真に受けるなやとか、冗談やんかとかって調子よく会話を回すのがいつもの澪なのに。一瞬目をやってきただけで、言葉が返る気配がなかった。

 しばらくの沈黙。最後の発言者である私にとって、甘受かんじゅするのも苦しいそれ。

 澪がいれば、たとえ会話が弾んでいなくても寂しくない部屋のはずなのに。過ごしやすいとは言えない手狭なワンルームが、まるで夢の国のように安心できる空間に様変わりするのに。

 冷蔵庫の音。換気扇の音。壁がきしかすかな音。

 温度のない無機質な音が、非情に時を刻む。問いを流された気まずさも、澪の希死念慮きしねんりょに対する寂しさも、悲しさも、悔しさも。心の各所にあった負の感情の火種が、その音にてられて着々と延焼していく。

 数分間、互いに無言のままだった。今回に関しては、私から話しかけるのが気の利いたことかどうかが分からなかった。

 そんな言い訳のとおり、果たして口を開いたのは澪の方だ。


「なぁ紬希。……服脱いで」

「………………ん、え?」


 え?

 ……理解に、時間がかかった。時間をかけても、まだ理解しきれていない。

 服を? 脱いで?

 私が言うならまだ分かるよ……いやそれもおかしいけど。でも、澪が私に向かって言うのはもっとずっとおかしい。ましてや、文脈から完全に脱線してのそれだ。幻聴か? 夢か?


「え、私の聞き間違いかもしれない」

「なんて聞こえたん?」

「服を脱いでって」

「あってるやん」


 あっさり肯定。

 そこまで言われても、なかなかに落ちない。


「あのさ、いくらお酒入ってても、こんな話したら気分落ちるやんか。でも、せっかく紬希と一緒にいるときに暗い空気にするのも嫌やし。……だから、さ晴らしがてらに紬希の性欲に乗っかってあげよう言うてんねん」

「あぁ、なるほど……うん、えーと、」


 このに及んで気遣いだった。さ晴らしがしたいというのは、本当だろうけど。

 そういうことか……と動機だけでも分かって少し安心していた矢先、視界の中央で澪がどんどん薄着になっていた。上半身に至ってはまさかのキャミソール一枚。

 もともと、五月で気温も落ち着いていて、気心きごころ知れた私の部屋ということもあって下もショートパンツとラフな格好だったのだ。そこからさらに上を一枚脱いでしまって、明らかに余所行よそいきの格好ではなくなってしまった。

 このとき、澪がいつも私を追い返す気持ちが少し分かった気がした。

 勝手に発情して仕掛けに行っている私はすっかり出来上がっていても、急に来られた澪からしたら急遽そういう気分にしなければならないのだ。今がまさにその逆で、ロード前の光景に打ちのめされている上に完全には酔えていないこの状態では、いくら私でも、誘われて一秒でスイッチを入れられるようなものではない。自分で意図的に発情させても相手の欲情に追いつかないと判断したとき、なるほど、見送ってしまいたくなる。

 ただ、悩みがないかと話題を振ったのは私だ。普段澪が私を追い払っているときとは訳が違う――突き返せた立場ではない。


「さっき無駄に身体の話入れてきたんは誘ってたんちゃうんかい」

「いやまぁ、ジャブのつもりではあったけど……」

「じゃあええやん。それに、紬希もさを抱えてないとは言わせへんで――その顔で」


 足並みを揃えたいのか、トップスを一枚パージしたところで中断している澪が、してやったりな目つきで言い放った。

 顔。まぁ、さすがに影の落ちた表情をしていたか。


「じゃあ、スイッチ入れるところからお願いしてもいい?」

「もちろん。てか、これまでも大体そうやん」

「そうだね」


 そう、傍目はためからは意外かもしれないが、いつもスイッチを入れるのは澪だ。

 程度の差はあれど、に至る条件は、より性欲の弱い澪が発情することである。私が発情しても澪はなかなか乗っからないが、澪が発情すれば私は簡単に引っ張られる。そのため、実際に事に及ぶなら澪がリードして私に火をつけるのがいつもの流れだ。無論、私がここまで性欲が湧かないのはイレギュラーなことで、普段なら澪のアプローチにすぐに応えられる。

 今回は――どうだろうか。

 正直なところ、全くそんな気分ではない。ただ、あんな最期を見せられて、澪の誘いを突っねるなどかえって至難の業だ。現時点でこのループの成果も少しは得られていることだから、ここぐらいは流れに――そして澪に、身をゆだねてもいいかもしれないと思った。

 同じくトップスを一枚脱いだ私の肩に、澪の細く綺麗な指が触れた。






※近況ノートとpixivにて、今話の挿絵を投稿しております。

 https://www.pixiv.net/artworks/108691814

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